(町田 明広:歴史学者)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(11)「徳川慶喜①」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65801)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(12)「徳川慶喜②」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65802)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(13)「徳川慶喜③」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65834)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(14)「徳川慶喜④」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65835)
慶喜の裏切りと将軍就任
慶応2年(1866)6月7日、第二次長州征伐(幕長戦争)が始まった。幕府は苦戦を続けていたが、その最中の7月20日、将軍徳川家茂が大坂城で急逝した。徳川慶喜は、将軍職は固持したものの徳川宗家の家督を相続し、幕長戦争の指揮を執ることになった。8月8日、松平春嶽らの反対を退け、慶喜は参内して自らの出陣の勅許を奏請し、聴許された。これは、慶喜の希望もさることながら、孝明天皇による戦争継続の意思表示に他ならなかった。
しかし、驚くべき事態が出来する。九州方面での敗報が届くと、慶喜は手のひらを反し、8月13日に関白二条斉敬に対して征長出陣中止の勅命を内請したのだ。孝明天皇は当初、当然のことながら難色を示したが、慶喜に押し切られて16日に勅許した。
この慶喜の「裏切り行為」に、慶喜と連携して政局にあたっていた朝彦親王と二条関白は激怒した。その影響は朝廷のパワーバランスにも及び、8月30日には廷臣22卿列参事件が起こり、朝彦親王らの権威は失墜した。また、幕長戦争の継続を強く求めた会津藩・桑名藩も慶喜に対する不信感を強くし、一会桑勢力も意思疎通を欠く事態となった。
一方で、慶喜は長州征討の止戦の勅命まで獲得し、同時に諸大名を召集して天下公論で国事を決める姿勢を示した。そして8月16日、軍艦奉行勝海舟を大坂から召して広島に派遣し、長州藩との止戦交渉を命じた。なお、幕府は20日には慶喜の宗家相続を公布し、上様と呼称することを沙汰している。事実上、新将軍の誕生である。
宗家のみ相続した慶喜に対し、孝明天皇はその裏切り行為にもかかわらず、相変わらず厚い信頼を寄せていた。天皇の信頼を背景に、慶喜は着々と準備を進め、12月5日に至り、在京諸侯の推戴を得たとして将軍に就任した。いよいよ、最後の将軍・徳川慶喜の登場である。