西洋式軍装に身を包んだ幕府軍。

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(11)「徳川慶喜①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65801
渋沢栄一と時代を生きた人々(12)「徳川慶喜②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65802
渋沢栄一と時代を生きた人々(13)「徳川慶喜③」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65834

慶喜に対する幕府の警戒と朝廷の信頼

 元治元年(1864)7月、禁門の変において、徳川慶喜の抜群の働きで長州藩は撃退され、その余勢を駆って第一次長州征伐が計画された。しかし、将軍家茂は江戸から進発せず、一方で幕府は、長州征伐の総督に慶喜が就くことを許さなかった。結局、長州征伐は11月まで実施されず、総督の徳川慶勝(元尾張藩主)は薩摩藩・西郷隆盛を頼り、実際には首謀者として率兵上京した家老の切腹などで総攻撃は中止し、さらに、三条実美ら五卿の太宰府移転を前提に、一戦も交えることなく、解兵してしまった。

 慶喜はその間も禁裏御守衛総督として在京のままであり、孝明天皇・朝彦親王・二条斉敬(関白)と強靱な連携体制を維持し、一会桑勢力の結合も進められ、幕府本体(江戸)から嫉視警戒される存在となっていた。そこに追い打ちをかけるように、大きな問題が起っていた。

 元治元年11月、天狗党の乱の残党浪士らは武田耕雲斎らに率いられ、慶喜を頼って西上を開始したのだ。幕府の方針は、賊として討伐することに決したが、水戸出身の慶喜が天狗党と合体するのではと驚くほど警戒していた。

天狗党の乱を描いた豊原国輝筆「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」

 慶喜はその嫌疑を察し、禁裏御守衛総督として諸藩兵を率いて大津へ出陣した。武田らは慶喜と争う気は毛頭なく、救解の訴願が無謀の策であることを悟り、12月17日に至って加賀藩に降伏を申し出たため、慶喜の命令で加賀藩は武田らを敦賀に禁錮した。幕府による彼らの処分は苛烈を極め、武田以下350人余を斬首に、450余人を流罪・追放に処した。慶喜にしてみると、断腸の思いであったことは想像に難くない。しかし、禁裏御守衛総督として、征討を試みようとしたことは当然の責務であったのだ。

 その後、慶応元年(1865)2月、老中本荘宗秀・阿部正外が計3000人もの幕兵を率いて相次いで上京した。その目的は、慶喜を江戸に連れ帰ることであり、併せて京都守護職・所司代を罷免することにあった。さらに、諸藩の勢力を京都から駆逐して幕府が制圧するためでもあり、また再三要請されていた将軍家茂の上洛の取り止めの伝達も目的に含まれていた。

 しかし、両老中が参内したところ、関白二条斉敬は慶喜の東帰および将軍家の未進発等につき、語気を荒げて激しく詰問し叱責したため、両老中は萎縮して前言をすべて撤回した。朝廷にとって、慶喜は絶対的な存在であり、京都を不在にするなどあり得る相談ではなかったのだ。