瀧山は、慶喜の将軍就任に反対の立場を取り、家茂の死を機に暇を願い出ていたという。その願いは聞き入れられず、長らく引き留められていたものの、慶応3年には奉公を辞め、江戸城を出ていることが判明しているのだ(*3)

(*3)津山藩江戸屋敷で記録された『七宝御祐筆間御日記』には、瀧山は慶応3年10~12月の間に、暇を認められ、大奥を出たとある。

 大奥を出た瀧山は、部屋方女中・仲野の実家を頼り、川口(現埼玉県川口市)に移り住んだ。そして、仲野の実家から養女を迎え、「瀧山家」を興した。

 明治9(1876)年、71歳で死去。日光御成道沿いに建つ、徳川とゆかりの深い錫杖寺(しゃくじょうじ)に葬られ、墓は今もそこにある。左に仲野と養子夫婦、右に叔母の染島の墓を従え、静かに日本の行く末を見守っている。