この特勤班=別班は事実上、米軍のFDDに自衛隊員を協力させるスキームだった。建前上はトップに米軍FDD指揮官と陸自の別班長が同格で構成する合同司令部が設置され、その下に「工作本部」および日米おのおのの「工作支援部」が置かれた。工作本部には3個工作班が設置され、各工作班には3~4人ずつ配置された。工作員は合計で十数人程度。その他に工作支援担当者がいて、陸自側の別班全体の陣容は約20人だった。

 活動内容は基本的にソ連、中国、北朝鮮など仮想敵国の情報収集だ。商社員や記者など海外を往来する人から話を聞いたり、そういった人に依頼して外国で情報を集めてきてもらったりした。その内容は米軍と陸幕2部の両方に報告された。他にも、ときに朝鮮総連や在日中国人実業家などの人脈に接触して情報をとるなど、公安警察や公安調査庁のような活動も行った。

 もっとも、別班の活動予算は多いときでも月額100万円程度。協力者への報償費も数千円から、多くて2万円程度だった。サラリーマンの平均月収が5万~7万円の時代だから、現在の貨幣価値なら7倍以上にはなるだろうが、それでも公安警察などとは比ぶべくもない小規模なレベルである。後に一部メディアで「多額の資金を使って活動する得体の知れない謀略機関」とのイメージで報じられたこともあるが、それはかなり誇張されたものだったといえる。

 別班は前述したように発足当初は陸幕2部長が直轄していたが、その後、2部内に連絡幕僚が置かれ、さらにその後は陸幕2部内の情報1班長が統括するようになった。つまり陸幕第2部情報1班特別勤務班というかたちである。後に一部メディアに「陸幕長も防衛庁長官も存在を知らない秘密機関」と報じられたこともあるが、当時を知る元隊長は「米軍との共同機関なので非公然ではあったが、上層部が存在を知らないということはないはずだ」と筆者に証言している。

金大中事件と別班の関わり

 いずれにせよ、実際の別班は『VIVANT』に出てくるようなテロリスト狩りを行う武闘派では全然なく、人に会ってネタを集める情報屋のグループだった。しかも、陣容はわずか20人程度。活動費も微々たるものだった。

 ところが、1973(昭和48)年に大事件が起こる。その年、別班は拠点としていた米軍のキャンプ朝霞が日本側に返還されたのにともない、米陸軍第500軍事情報旅団の本部があるキャンプ座間に移転したのだが、そのほぼ同じ時期に「金大中事件」が発生したのだ。