死を心配するよりも、いかに生きるかを考える
──そうした将来像を踏まえて「生と死」の話をお聞きしたいと思います。コロナ禍、ウクライナでの戦闘長期化という状況の中で「生と死」という根源的なテーマを身近に考える機会が増えました。
養老 最近よく思うんですけどね、死については、メディア、今回(のテーマ)もそうですけど、扱う時にですね、非常にこう、平等で単一に見えちゃうんですよ。そっちに議論を持っていくと、忘れちゃうのは裏側ですね、というか本当は表側なんですけども、生きるということについての思考がおろそかになってしまう。だから、あんまり死と言わないで、いかに生きるかを強調した方がいいですね。
コロナでいろんな規制が起こったこともそうですね。要するに生き方の問題にかかわっちゃう。死ぬことを心配するとね。政府とか行政はそういう考えですから。死者の方が数えやすいから。生きている人がどのくらい元気かなんて計算はできないですからね。規制という政策が死を基準にしてつくられていくわけです。
──死を前面に出すことはマイナスでしかないということですね。
養老 本来、マイナスでしかないですよ。
名越康文氏(以下、敬称略) きょうは、養老論の中で展開されている日本像をぜひ、ちゃんと聞いておきたかったんですけど、先ほどコンパクトにしかもバランスがとれたお話をしていただいて頭の整理ができました。
そのお話を踏まえて思ったのは、これからは生き方自体をなだらかにでも、結構急いで変えていくべきだということです。南海トラフをどういうふうにとらえるのかは、メディアを通じてもっと多角的に、ある場面ではバラエティーの番組なんかも込みで伝えて議論すべきだと思います。
死というものを深刻に考えたくなければ、ライフスタイルを変えていくことが大事だと思います。半年や1年でできることではないのですが、10年も20年もかかるとも思いません。
数年、5年ぐらいの単位で、自分がどこに住むのかとか、どういうことに生きられる時間を溶かし込んでいくか。時間が溶けるなんて、「ゲーム5時間やっちゃって時間溶けた」みたいにね、無駄に使う時の言葉ですけど。でもそんなこと言ったら、生きている時間は全部何かに溶けていくわけです。
さめてみたら、そんな大したことをやっているわけじゃない。諸行無常、盛者必衰という大局のことわりからみるとすると、実は何をやろうとそんなに差はない。
その上で何に時間を溶かすのかというふうに考えると、価値観が変われば日本人のライフスタイルが5年ぐらいで結構変わっている可能性があると思うんです。そうなっていれば、南海トラフのあとの混乱というものもある程度緩和される可能性がある。5年、10年かけてムーブメントを起こしていけばね。