「凱旋の場」の中に隠されているドラマ
有名な「凱旋の場」の中にも、ドラマは隠されている。
ひとしきり勇ましい行進が終わった後に、敗けたエチオピア側から捕虜・奴隷として連行されてきたボロボロな人々が登場するのだ。
彼らをどう扱うかについて、エジプト側では議論となる。
「哀れな願いを聞いて自由にしてあげましょう」と慈悲を求める一部の人々に対し、「こいつらは皆殺しにするべきだ!」と頑強に主張するのが祭司たちである。

捕虜たちに紛れていたエチオピアの王アモナズロは、エジプト王に向かってこう歌う。
「もし国を愛することが悪いことなら、我々はみな悪人。死ぬ覚悟はできています。今は私たちは運に見放されましたが、明日はあなた方が運に見放されるかもしれないのですぞ」
勝てば官軍、敗ければ賊軍という言葉があるが、まさにそういう場面である。
ここで作曲家ヴェルディは「慈悲を」という言葉には優しい音楽を、「殺せ」という言葉には冷酷な音楽を付けている。
勝者・多数者の視点だけで国家を描くのではなく、むしろ敗者・少数者の視点を大切にする。ヴェルディのドラマ作家としての優れた点のひとつである。
「アイーダ」で興味深いのは、凱旋の場だけでなく、各幕のさまざまな場面で宗教権力者たちが登場し、国家的な営み(政治権力の神格化、戦争行為の正当化・美化、個人に対する名誉や断罪の確定)に深くかかわっていくという点である。
これまでの人類の歴史において、政治と宗教は不可分の関係にあった。