そのストーリーの本質
神の権威を後ろ盾とすることによって、国王も皇帝も、威光を揺るぎないものとした。その権力行使の正当化および身元保証は、常に宗教権力者が引き受けたのである。
「アイーダ」はあらゆるオペラの中で、国家における政治と宗教の密接な関係について最も批判的に、鋭く洞察した作品のひとつである。
「アイーダ」は古代エジプトを舞台にした恋愛物語でもある。
エジプトの名将ラダメスは、国家に忠誠を尽くすことよりも、敵国エチオピアの王女アイーダとの愛に生きることを選び、その代償として生きながら地下牢に閉じ込められるという刑を受ける。エジプト王女アムネリスはラダメスへの報われない愛に悩みながらも、最後は地下牢の上で魂の平和への祈りを捧げる。
そのストーリーの本質は──国家が戦争を遂行するときに、いかに「個人の愛」を圧し潰す暴力装置として機能するか──というテーマに他ならない。

国家とは何かという問題について、「アイーダ」と並んで重要な音楽作品が、この4月に上演されたので、そのことにもぜひ触れておきたい。
東京・春・音楽祭の一環として4月2日に東京藝術大学奏楽堂で加藤昌則指揮BRTオーケストラによって上演された、英国の作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-76)の「シンフォニア・ダ・レクイエム」である。
この曲は、日本と極めて深いかかわりを持っている。
1940年(昭和15年)、皇紀2600年記念行事のための祝典音楽を、当時の日本政府はドイツ、イタリア、フランスなど海外の作曲家にも委嘱し、イギリスではブリテンがこの曲を書いたのである。
国家を挙げての奉祝音楽なのに「レクイエム」、つまり葬送音楽とは何事かと日本政府側は怒り、この曲は演奏拒絶された。
一体なぜブリテンがそのような音楽を書いたのか、コンサート当日のトークでは指揮の加藤昌則(作曲家としても活躍中の人だ)が、「ブリテンは皮肉でこの曲を書いたのではないか」と話していたが、確かにそう考えるよりほかないくらい、お祝いの曲としては一見ふさわしくない暗澹とした悲劇的作品である。
しかし、この日のコンサートの、迫力と繊細さに満ちた、優れた演奏を聴きながら思ったのは、案外ブリテンは「シンフォニア・ダ・レクイエム」を、「国家とは何かということを問い直す作品として、大真面目に皇紀2600年祝典曲として演奏してもらいたかったのではないか?」ということである。
