伝馬町牢屋敷の石垣(写真:アフロ)

 池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵宣以(のぶため)は18世紀後半に放火犯や盗賊を取り締まる火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため:火盗改)の長を務めた実在の人物。この役職は2~3年で交替するのが通例だったが、平蔵は8年間も務めた。わずか50人の部隊だったが、江戸の市中を取り締まり、高い検挙率を誇ったという。平蔵はどのような捜査をしたのだろうか。

(*)本稿は『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』(宝島社新書)の一部を抜粋・再編集したものです

◎1回目「『鬼平犯科帳』から紐解く、高い検挙率を誇った江戸時代の犯罪捜査の秘密」から読む

『鬼平犯科帳』の「鈍牛(のろうし)」では、長谷川平蔵が放火犯の身代わりとなって捕らえられた亀吉を尋問するために、伝馬町牢屋敷に赴くエピソードがある。

 多くの時代劇に登場する日本橋小伝馬町の牢屋敷は幕府最大の牢獄で、敷地面積は約2618坪(約8637平方メートル)あり、サッカー場をひと回り大きくした広さだ。周囲は高さ約8尺(約2.5メートル)の練塀(ねりべい)が囲み、その外側には堀がめぐらされていた。

 徳川家康が江戸に入部した当初に創設されてから明治時代初期に取り壊されるまで、脱牢した者はほとんどいなかったといわれる。

 江戸時代には懲役刑や禁固刑はなかったため、現在のような刑務所にあたる施設は存在しなかった。そのため江戸時代の牢獄は、詮議中の容疑者を収容する留置所や、刑が確定した囚人を勾留する拘置所にあたる。

 ひと口に牢獄といっても、身分によって分けられていた。亀吉が収容されていたのが大牢で、これは江戸時代の戸籍にあたる「宗門人別改帳」に記載されている一般庶民が入る牢獄である。広さは約30畳である。

 大牢は東西にあり、囚人同士の無用ないさかいを起こさせないために、宝暦5年(1755)には、牢馴れした常習犯は西大牢へ、初犯などの処遇の容易な罪人は東大牢への振り分けがなされた。

 同じ庶民でも「宗門人別改帳」から外れた無宿(※)はやや狭い24畳の二間牢に入れられた。このため二間牢は「無宿牢」とも呼ばれる。

※「宗門人別改帳」から名前を外された者のこと。必ずしもホームレス状態にあるわけではない