ネット記事は漫画を読んだ後で読んだ。美齊津さんは立派な半生を生きてこられた。

昔の元気だった頃の母の声が

 小学5年生だった康弘少年がある日学校から帰ってくると、普段は父親の会社の経理を手伝っていて、昼間は家にいないはずの母親がいた。かれは喜んだが、経理の仕事がつづけられないほどミスが多くなり辞めさせられていたのだ。この頃から、母親は鏡に向かって独り言をつぶやくことが多くなっていった。

 母親は家事をやろうとするのだが、掃除はおざなりになり、料理は火を出したりして、「しっかりしなさいよ、何やってるの、できない訳ないわ、できるんですもの」と自分にいい聞かせた。そういう状態の自分に、自分がいちばん悔しかったのだろうが、徐々に服を何日も着替えず、風呂にも入らないようになっていった。康弘少年が中学に上がるころ徘徊が始まり、かれのことも分からなくなった。

 やさしく明るい母だった。若いときは陸上で国体に出たほどの選手で、地域の運動会ではリレーで大活躍をした。裕福な家庭で誕生日やクリスマスには欲しいものを買ってもらえた。年に1回は家族旅行に行き、満たされていた。そんな幸せな日々がこの先もつづくはずだった。それが一転して、暗い家になった。

 やがて一家は、近所に住む一人暮らしの叔母さんの家に引っ越した。それで食事や家事の心配は一応なくなった。時は1980年代の半ばで、地域や行政の支援はまだなく、母親のことは世間体をはばかって、なるべく外にださないようにしていた。友たちにも先生にもひた隠しに隠した。家族の恥だと思っていたのだ。

 康弘少年は「こんな人生、もうどうでもいいと、全てに対して投げやり」になることもあった。「よりによってなぜうちの母が病気になったのか」と思い、「母に対して、にくたらしい、許せないっていう感情でいっぱい」だった。そんな母のことを忘れたくて、耳栓をして勉強をした。家にいるときはひたすら問題集を解いた。

 そんなある日、家にかかってきた電話を母親がとった。「もしもし、加畑でございます」(彼女の旧姓か?)と応えた言葉がまったく昔の母親の声だったのだ。このエピソードは泣かせる。その声が聞きたくて、康弘少年は毎日天気予報に電話をしたのだ。その当時、3コールほど呼び出し音が聞こえてくるのだった。母親が電話に応える。聞こえてくるのは天気予報できょとんとしているのだが、かれは昔の元気だった頃の母の声が聞けて満足だった。

 高校生になったとき、母親は精神病院に入れられた。「母から解放されることに、心からほっとしました」と美齊津さんは正直に書いている。ほとんど見舞いに行かなかった。それでも数回会ったときは、母親は老婆のように痩せて小さくなっていた。かれは防衛大学に入学した。1年のとき、母死亡の連絡がきた。

 美齊津さんがいいのは家族や叔母さんのことを悪く書いてないことだ。父親は家族のために寡黙で朝から深夜まで仕事をし、兄のことは「自分のことで精いっぱいだったのだと思います」と庇っている。