辞書の語釈を忘れるようでなければ、その言葉は自分のモノにならない(写真:アフロ)

 1980年代頃から、テレビや新聞などから難しい言葉がどんどん消えていった。言葉遣いを平易にすることで、より多くの人に見てもらう・読んでもらうための取り組みである。しかし、言葉はそれぞれ意味が異なり、どんな言葉にも意味がある。

 言葉を通して世界を認識する私たちが言葉を失っていけば、それだけ世界を感じる方法もまた失われてしまう。これはもしかしたら相当恐ろしいことなのではないか。『教養としての上級語彙 知的人生のための500語』(新潮選書)を上梓した評論家の宮崎哲弥氏に話を聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──「若い頃から単語帳を作るのが好きだった」「今も四つの言語の語彙を集めたノートを持っている」と冒頭に書かれています。どのようなノートを作ってこられたのでしょうか?

宮崎哲弥氏(以下、宮崎):14歳くらいから始めたと記憶していますが、本や雑誌、新聞、ドラマや映画などの中に知らない言葉が出てくると、まるで昆虫採集にも似た感覚で、その言葉をノートに記載するということを癖みたいに続けてきました。

 未知の言葉に興味があり、言葉を覚えるということに楽しみを感じる。新しい言葉を知り、その意味を理解するということは、まだ知らない世界の一部に照明が当てられるような感覚があります。

──かなりの読書家であるという印象ですが、子供の頃から本がお好きだったのですか?

宮崎:育った家にたくさんの蔵書があり、子供の頃から本を読んできました。

 それと、幼児期に母親が読み聞かせをしてくれて、それで本を読むことに馴れていったという面はある思います。

 例えば「アラビアン・ナイト」を暮夜(ぼや)、枕辺(まくらべ)で読み聞かせするときも、母は子供向けのやさしい言葉遣いの本ではなく、難しい言葉も混じる翻訳版の「千夜一夜物語」を読んでくれました。

 知らない言葉の意味を母に尋ねたり、想像して埋めたりしながら、眠りにつく前の一時、日本語の豊かな世界に遊んでいた。その影響か、今でも好きな文章に出会うと私は必ず音読します。

──「言葉によって名付けられることで、名付けられない巨大な塊のような原 - 世界が分節され、事分けられ、諸々の個物から成る秩序立った現 - 世界が展開するようになる」と書かれていますが、改めて言語によって人がどのように世界を認識しているのか、宮崎さんのイメージを教えてください。