(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
正月が待ち遠しかったのは小学校までだったか。実際、正月になってみるとたいして楽しくはなかったのだが、お年玉をもらうのはうれしかった。
わくわくは前日から始まっていた。紅白歌合戦があったからである。わたし(の家族)の場合、大晦日の最大の楽しみは、もう無条件に紅白歌合戦を見ることだった。
これまた実際に始まってみれば期待したほどでもなかったのだが、父親なんかは新聞の紅白の対戦表に、「こりゃ白の勝ちだな」などと独り言をいいながら、〇をつけていたものだ。時折わたしに「おまえはどっちか?」と訊いたりして、わたしを困惑させた。
なんと無邪気で単純だったことか。いま思い起こせば、掘りごたつに親子6人が入って、ミカンやお菓子を食べながら過ごした、ひと時の幸せな時間だった。
しかし中学生あたりになると紅白もただの惰性で、高校生になると、もう紅白どころじゃなくなった。ロバート・ヴォーンとデビッド・マッカラムの「ナポレオン・ソロ」を見たくてたまらず、九州の田舎の受信状態がよくないなか、必死でテレビの調整ボタンを操作をしたものである。
視聴者の姿が見えず四苦八苦のテレビ局
だが今の日本から、かつての大晦日の家族のそんな幸せな時間は、とっくの昔に失われてしまった。
今や子どもたちは個室をもっている。テレビは一人に一台、それどころか電話も一人ひとりもっている。娯楽はテレビ以外に、無数にある。ゲームも音楽も映像もマンガもすべてスマホ一つあればすべて事足りる。いまだにテレビを見ているのは、昔「テレビの魔法」を刷り込まれたじいさんとばあさんだけではないか。
テレビ局は視聴者の姿が視えなくなったそんな状況のなかで、どうしていいかわからず四苦八苦しているようである。そのかれらが結局、今年の大晦日になにをやることに決めたのか、以下がそのラインナップである。
そのどれを見るか。どれも見なくてもいいのだが、そこはそれ、わたしらの年代にとってはまだ、腐ってもテレビである。やはり大晦日はテレビでしょ。