(廣末登・ノンフィクション作家)

 筆者は「ヤクザ博士」と呼ばれて久しい。しかし筆者は、テキヤ(=露天商)の経験はあるが、ヤクザの経験はない。テキヤ経験者である筆者が残念に思うのが、神社の祭りを盛り上げる名人であるテキヤを、グレー視する官の眼差しである。

 筆者の体感では、テキヤをグレー視するのは官だけだ。一般の人たちには、そうした傾向はみられない。会社員が社長以下社員一同で初詣をし、テキヤの茶店で一杯飲んでいくなどという光景はザラである。

 ただ、そうはいっても、官の視座は、やがて一般の人たちに共有されかねない。そこで、筆者は、現状をテキヤの人たちはどのように感じ、今後はどうしてゆくつもりなのかという点につき、東京の下町で一世紀以上の歴史を持つテキヤの幹部(当時)であった東山真一氏(仮名)に話を伺った。

経済混乱期には社会の緩衝材となったテキヤ

「歴史上、テキヤが一気に増えた時代があります。ひとつは、大正の関東大震災のとき。失業者が増えたため、行政と警察が相談して、一般の人たちを露天商になることを奨励したんです。もともと露天商は、親方一人に若い者一人という程度だったのが、この政策によって若い衆が増えたのです」(東山氏)

 東山氏の言うように、大正15年(1926年)2月に警視庁が出した失業者対策は、許可制であった露天商に、一般人が容易になれるよう要件を緩和したものであった。

〈失業者対策の一環という名目で「露店慣行指定地」(警視庁令第五号交通取締規則第四十条)を発令した。その内容は、「縁日露店慣行地」、「特殊露店慣行地」、「平日露店慣行地」、「臨時露店慣行地」であった。つまり、職がないものは露店許可証がなくてもモノが売れるようになった〉(実話時代編集部『極東会大解剖』三和出版2003年)