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(廣末登・ノンフィクション作家)

 2022年7月、東京下町にニワ場を持つテキヤ組織が解散した。組織の名は、姉ヶ崎会(旧姉ヶ崎一家など)といい、明治後期の姉ヶ崎一家結成以来、実に130年余りの歴史を有する団体である。

 当然、マスコミ各紙はこの解散を報道した。そうした記事の多くに、「ダフ屋」、「暴力団」という用語が散見される。だが、姉ヶ崎会の本流はテキヤだ。

 もちろん、姉ヶ崎会と名乗っていたわけだから、その傘下には、玉石混交、白黒様々な枝組織が存在していたことは否定できない。しかしながら、一部が黒だから、全て黒であるという見方には首肯しかねる。

 実際、姉ヶ崎会の先達は、様々な形で、戦前は、浅草下町の零細商店を大資本の攻勢から守るため政治にも参画してきたし、戦後の東京の復興においても一定の役割を果たしてきた。何より、東京の浅草下町で、四季折々の祭りを盛り上げてきた。つまり、一世紀以上にわたり、戦前の東京市、戦後の東京都の人々と共に、浅草下町を盛り立て、彩ってきたのである。

 戦前より今日まで、地域と共に歩んできた姉ヶ崎会の解散を、「暴力団の解散」として、十把ひとからげで片付けることは、真剣に、一途に、日本の祭りの演出してきた人たちに申し訳ないと思う。

 本稿では、テキヤを経験したことがある筆者が、主観の域を出ないかもしれないものの、見聞した範囲において、関東テキヤの今昔について述べたいと思う。

ヤクザより古いテキヤの歴史

 そもそもテキヤは、ヤクザよりも歴史が古い。今でこそテキヤと総称されているが、その形態は露天商であり、近年では香具師と呼ばれていた。テキヤの源流には諸説あるが、一説を紹介する。

「平城京のなかに東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)が官設され、市司の管理下に、物資の交易が行われた(710年~784年)。市は正午にひらかれ、日没前、鼓を三度うつことでとじられる。これが市の最も代表的なもので(唐の都、長安の東市・西市を範としたもの)、また大和の海石榴市(つばきいち)、阿土桑市(あとくわいち)、河内の餌香市(えがのいち)など、朝廷直轄地の市が出ているとか、地方では茨城の高浜、島根朝酌の促戸渡(せとのわたり)など、交通の要衝にあたるところ、漁獲あり、人家多くあるところに市が立つ。市の立つところに人の集まるのは自然の勢いで、そこには歌垣の陥落ももたれるに至る(日本書紀)。

 市の立つ近傍の人々はそれでよいが、山間の住人は塩や魚類に不自由であり、海辺や島の住民は穀物が欲しい。ここに物資の移動がうながされ、行商がおこり、商い旅がはじまる。それに従事したのが海辺からの海女、山間からの山人、そして浮浪人とある。

 浮浪人といえば、今日聞こえがわるいが、それは定着生活が一般となった、社会環境の転移発展にともなう感覚のずれである。流泊を生活とする習わしは原始の当然であって、洋の東西を問わぬところである。顕著な例でいえば、こちらに山窩の類が残るように、あちらはジプシーのそれがある……

 テキヤは、実はこの浮浪人を源流としているのである。海人・山人はそれ自身が生産者であるが、浮浪人はそれ自らの生産物をもたない。初期は物資移動・交換のための運搬者ともいえるし、今日語の便利屋ともいえる。これが通貨取引が行われるようになってから『商い』と変じたのである」(添田知道『テキヤの生活』雄山閣1973年)

 いうなればテキヤは、日本人の経済活動を支える最も古い媒介者だったと言ってもいい存在なのだ。