織田信長像 写真/アフロ

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

比叡山焼き討ちの理由

 元亀2年(1571)9月12日、織田信長は近江比叡山・延暦寺を焼き討ちした。

 この焼き討ちはあくまでも、信長と(第一次)織田包囲網の私戦であった。

 しかし信長と比叡山は、もとから私的な対立があったわけではない。はじめ比叡山は、将軍・足利義昭を打倒する陣営として織田軍に攻撃したのだ。言うなれば、「足利義昭包囲網」である。信長は義昭を支える大名としてこれに立ち向かった。

 ところが幕府が「信長と皆さんの仲を仲介します」と言い出して、全ての責任を信長に投げ渡す形で包囲網の対象から離脱した。この策に信長も合意したが、このせいで「足利義昭包囲網」は「織田包囲網」だったことになってしまったのだ。

 信長も仕方なくこれを受け入れた。

 そして冬が来て雪が降り始めると、両陣営の停戦が機能して、畿内近国は平和を取り戻した。だが、春が近づいて雪解けが始まると、「殺られる前に殺るべし」とばかりに、信長および「織田包囲網(もと足利義昭包囲網)」が動き始めた。

 そして信長は、比叡山勢力を潰すため、焼き討ちを敢行したのである。

 先ほども述べたように、これは幕府の公戦としてではなく、信長の私戦として認識された。信長が勝手にやったことなのだから、幕府は一切の汚名を蒙らない。