人員・路線の大幅削減を伴う更生計画案を提出した日航CEO当時の稲盛和夫氏(2010年8月、写真:ロイター/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

※本稿は『ただ生きる』(勢古浩爾著、夕日書房)より一部抜粋し、大幅に加筆したものです。

 稲盛和夫氏が今年(2022年)8月に亡くなった。90歳。老衰だったという。大往生、といっていい。

 稲盛といえば、あるエピソードを思い出す。

 かれは中学受験に二度失敗し、大学も希望校には入れず、かろうじて鹿児島大学工学部に滑り込んだ。卒業後も、希望する会社には次々と落ちつづけ、恩師の斡旋でやっと京都の碍子製造会社に入社した。しかしこの会社は、オーナー一族のもめ事が絶えず、社員の士気も低く、労働争議が頻発する劣悪な会社だった。

 稲盛も一度は転職を考えたが、腹をくくるとひたすら仕事に邁進した。なかには立派な技術をもった先輩たちもいた。だが、正しいと思ったことは口にする稲盛は、自分たちの権利ばかりを主張するだけで、仕事はろくにしない組合と対立した。

 入社わずか2年後に、新設された特磁課を率いた。夜遅くまでセラミックスの開発・製造に打ち込んだ。会社でこの課だけが利益を出した。3か月後、日立からセラミック真空管の引き合いが来て、悪戦苦闘していたが、新任の技術部長におまえの能力ではできないといわれ衝突した。稲盛は会社を辞める決心をした。部下たちもついていくという。前任の青山部長まで「よし、何とか金を集めて会社をつくろう」と賛同してくれた。時に1958年(昭和33年)。

 青山氏は京都大学工学部時代の親友で、宮本電機製作所の西枝専務と交川(まじかわ)常務のふたりに出資を頼んだ。交川氏が「お前、アホか。この稲盛君がどれほど優秀かしらんが、二十六、七の若造に何ができる」というと、青山氏は「稲盛君の情熱は並外れている。必ず大成する」と説得した。稲盛は「情熱だけで事業は成功するのか」といわれたが、「将来きっとニューセラミックスの時代がきます」と必死に訴え、頭を下げた。

 結果、資本金300万円のうち、宮本社長と同社関係者が130万円、西枝専務が40万円、交川常務が30万円を出資し、あとの100万円は青山氏や稲盛たちの分担だったが「金がないので技術出資の株主という格別の配慮」をしてもらった。

 しかしそれだけでは会社は立ち行かない。電気炉などの設備投資、原材料の仕入れ、運転資金などに約1000万円が必要である。

西枝氏夫妻の驚きのエピソード

 わたしが必ず思い出すエピソードというのはこのときのことだ。これまではその前段階である。こういうことが現実にあるのか、とため息が出た。