佐久間象山 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

 古今東西、政情が不安定になったり震災が起こったりすると、必ずどこからか不思議と湧き上がってくるのが流言、風説、デマの類であり、今で言うフェイクニュースである。幕末においても、それは同様である。時によって、まことしやかに喧伝された流言によって、暗殺の対象とされてしまい、命を落とす人物も少なからず存在した。

 元治元年(1864)の夏、具体的には4月から7月にかけて、前年の八月十八日政変によって京都から追放された長州藩は、勢力の挽回を図って率兵上京を計画し実行に移した。そのため、幕府や会津藩、薩摩藩と長州藩の間では、軍事的衝突が回避できない情勢になっていたのだ。こうした不安定極まりない中央政局において、いつも以上に真偽不明の流言が飛び交っていた。

 その間の流言によって、はからずも暗殺された人物こそ、佐久間象山(1811~64)であった。象山はどのような流言の犠牲となって暗殺されてしまったのか、2回にわたって、その真相に迫ってみたい。

 第1回目の今回は、佐久間象山とはどのような人物であったのか、また、当時の中央政局の状況はどのようなものであったのか、そこにフォーカスして述べていこう。

佐久間象山とは何者か

 象山は、幕末の先覚者と自他ともに認める信州の松代藩士である。名は啓(ひらき)、字は子明、通称は修理、号を象山という。一般には「しょうざん」というが、地元の長野では「ぞうざん」と呼称されることもある。筆者は長野県出身であるが、小学校時代に繰り返し斉唱した長野県歌『信濃の国』(明治33年、1900)では、確かに「ぞうざん」である。

 天保4年(1833)、象山は江戸に遊学し、林家塾の塾頭(後に昌平坂学問所教官)の佐藤一斎の門人となった。しかし、既にこの段階で一廉の朱子学者であった象山は、実際には、朱子学よりも陽明学を信奉していた一斎に不信感があったのだ。象山は一斎から経書講義を受けることを拒み、主として中国の韻文を学んだらしい。

 天保13年(1842)、松代藩主の真田幸貫が老中・海防掛に就任すると、象山は顧問に抜擢された。当時はアヘン戦争(1840~1842)が大きなインパクトを日本に与えており、命を受けた象山は海外事情を研究し、軍艦や砲台の製造や士官養成の必要性などを盛り込んだ建白書「海防八策」を主君幸貫に奉呈したのだ。

 これを契機に、象山は蘭学修業の必要を痛感したため、弘化元年(1844)にオランダ語を学び始めた。この時すでに、象山は34歳であった。ちなみに筆者は、象山が新しい学びを開始したこの年齢を常に意識し、勉学に励んだ記憶がある。

 それはさておき、象山はわずか2年ほどでオランダ語を修得し、ヨーロッパの自然科学書、医書、兵書などを読み漁り、蘭学の知識を猛烈に吸収するのみならず、それをいかに応用するかにも心を砕いたのだ。