(歴史ライター:西股 総生)
織田家の本城だった岐阜城
永禄10年(1567)、織田信長は斎藤龍興を下して美濃を征し、稲葉山城に居を定めて名を「岐阜」と改めた。以後、天正4年(1576)に安土城を築いて移るまでの10年間、岐阜城が信長の居城であった。
いや、信長が安土に移った後も美濃は織田家の本領であり、岐阜城は嫡子・信忠の居城であったし、信長・信忠が本能寺に倒れてからも、家督を嗣いだ三法師(秀信)の居城だった。つまり、信長が入って以降、岐阜城は一貫して織田家の本城であり続けたのだ。
そんな岐阜城は、びっくりするくらい高いところに築かれた山城だ。標高370メートル、麓からの高低差は350メートルもあって、普通の人はロープウェイで登る。筆者は、体が動くうちにいっぺん歩いて登ってみたいと念じているが、まだ果たせていない。
現在、岐阜市の中心市街は、岐阜城のある金華山の麓から、岐阜駅のある南西方向にかけて広がっている。けれども戦国時代の城下は、金華山の西麓側から長良川のあたりに広がっていた。ロープウェイも、金華山の西麓から登ることになる。
岐阜公園からロープウェイで標高差280メートルを一気に上がり、山頂駅を降りると、ほどなく一ノ門跡と伝わる場所がある。城の中枢部に入るためのチェックポイントだ。左手上の展望レストランの建っているところが伝太鼓櫓跡で、往事は警備の兵が詰めていたことだろう。
道はよく整備されていて歩きやすいが、とはいえ山頂の天守までは山道を行くので、足ごしらえはしっかりと(革靴やパンプスは不可)。左手に堀切を見送って進むと、道は屈折しながら伝下台所跡・伝上台所跡をへて、いよいよ山頂へと向かう。正面に見えてくる天守は、戦後になって鉄筋コンクリートで建てられたもので、史実に基づかない模擬天守だが、ここに信長がいたことは間違いない。
天守下の小さな広場に自動販売機があるので一息ついていると、裏手の山道から歩いて登ってきたハイカーの人たちといっしょになる。皆さん健脚そうだが、息が上がっている。信長の時代にはもちろんロープウェイなんかないから、歩いて上り下りしていたわけで、信長本人も大変だったろうが、家臣たちはもっと大変だっただろう。
驚くべきことに当時の史料を読むと、信長は山頂部に住んでいたことがわかる。当時の美濃は、戦乱の余燼くすぶる占領地だったからだ。信長というと、颯爽と時代を切り開いてゆくイメージがある。でも実際は、猜疑心が鎧を着て歩いているくらいの用心深さがないと、生き残れないのが戦国乱世だ(実際、信長はのちに油断から命を落としている)。
信長の側近く仕える者や御殿の女性たちは、これでは逃げることはおろか、外部と連絡を取ることすらままならなかっただろう。高い山の上の城に住むということは、敵や叛乱軍の攻撃に備えるだけでなく、側仕えの者たちから内通者を出さない、というセキュリティの面からも有効だったことがうかがい知れる。
古びたコンクリ製の天守は、風情はないが展望台としては優れ物で、長良川と濃尾平野を一望できる。西を望むと、山並みの向こうが関ヶ原・近江、その先は京へと通じているわけだ。建物の形は違っても、信長もここに立って同じ景色を眺めていたのである。
天守の奥に小さな資料館が建っていて、さほどの展示はないのだが、入ってみると意外な「人物」に会えるので、大河ファンは立ち寄ってみるべし。資料館を辞したら、天守の下を通る山道に入ってみよう。山腹に織田時代の石垣がよく残っているのを見ることができる。石垣の下には井戸もある。信長も、この井戸の水を飲んだり、茶を点てたりしたはずだ。(つづく)
[参考図書] はじめて城を歩く人に読んでほしい、城の見方の基礎が身につく本、西股総生著『1からわかる日本の城』(JBprees)好評発売中!