(2)防衛庁機の自主開発による国内開発基盤の構築
1954年には防衛庁においてジェット練習機研究開発計画の検討が開始されている。
こうした意欲的な活動は「J-3」エンジンおよび「T-1」練習機として実を結び、1960年5月17日、J-3搭載の我が国初のジェット機(T-1練習機)は日本の空に飛び立っている。
この戦闘機型の小型機開発の基軸は、日本初の超音速機となった1965年代の「T-2」練習機およびその改良による「F-1」戦闘機の開発に引き継がれた。
さらに日本初のファン・ジェットであるF-3エンジンを搭載した「T-4」練習機開発経験を経ることにより、開発経験に応じた設計者の階層構成が可能となり、また搭載装備、部品・素材を含めほぼ完全な国内開発基盤が構築された。
ようやく復活・育成した技術基盤態勢の下で、日本の航空機産業界が総力を結集して開発を目指したのが「FSX」(F-2支援戦闘機)であった。
防衛庁と産業界が一体となって国内開発が志向されたものである。
しかし、結果は、米国の「F-16」戦闘機をベースとして日米共同開発することになった。開発の実行過程で各種の問題点が発生したが、日本のリーダーシップの下で、日本の開発手法をベースにプログラムを推進した経験は大きい成果である。
その他自主開発された自衛隊機としては「PS-1」飛行艇、「C-1」輸送機、「P-1」哨戒機、「C-2」輸送機が挙げられる。
(3)民間輸送機などの開発・生産による国際共同開発基盤の構築
1956年通産省の主導で国産民間機計画が打ち出され、1959年に「YS-11」の本格的な開発に着手した。
1962年暮れには初飛行し、1964年8月には型式証明を取得している。
YS-11は日本の航空機産業が世に問うた最初の本格的な旅客機であり、耐空証明・販売・プロダクト・サポートといった未知の領域を抱えながら、総生産機数182機のうち75機を15カ国へ販売・輸出したことは特筆に値する。
YS-11後継機開発への模索は、様々の紆余曲折を経て1975年代の「B-767」共同開発参画へと展開し、さらに1985年代の「B-777」共同開発事業参画へと発展するに及んで、国際共同開発・生産が民需部門における支柱に育つことになった。
さて、航空再開から70年、日本の航空機産業は今や超音速戦闘機を開発・生産する能力を持ち、民需では世界の主要な航空機メーカーから開発のパートナーとして嘱望されるまでに成長した。