鎌倉で大歓迎を受ける

 西国に落ちのびた平家一門を追いかけることなく京都に残った頼盛でしたが、木曾義仲が占領する京都から、ある日突然姿を消します。そして頼盛が次に姿を現したのはなんと、仇敵である源氏の棟梁、源頼朝のいる鎌倉でした。

 実は頼盛はかねてから京都で、頼朝と後白河法皇らとの連絡役を務めていたのではないかという説があります。特に、木曾義仲の動向を伝えていたとされ、そして連絡役をある程度果たしたことから、改めて頼朝に臣従する姿勢を見せるため鎌倉に赴いたとみられています。

 こうして鎌倉にやってきた頼盛を、頼朝はかつての命の恩人だとして手厚く歓迎しました。もっとも頼朝の本心は、後の京都における政治工作を念頭に、頼盛が持つ後白河法皇や八条院との人脈に期待していたのでしょう。

 とはいえ、頼盛が平家一門の重要幹部であるにもかかわらず、頼朝は頼盛に対して異例なほどの歓迎ぶりをみせています。頼盛の荘園に本領安堵を行ったほか、京都へ戻る際も多くの引き出物を渡したそうです。

 その後、京都に戻った頼盛は朝廷に再び出仕するようになります。そして平氏が滅亡した壇ノ浦の戦い(1185年)を見届けた後、ほどなくして出家し、翌1186年に京都でひっそりと亡くなりました。