特に乱後においては、頼盛の家臣であった平宗清(たいらのむねきよ)が逃亡中の源頼朝を捕縛するという大功績を打ち立てています。もっともこの時に捕縛された源頼朝は、池禅尼らに助命されて伊豆に流されています。これが後の平家滅亡のきっかけとなるわけですが。

清盛に疎んじられる

 平治の乱で、戦場での大活躍に加えて頼朝捕縛という功績を打ち立てた頼盛でしたが、乱後の論功行賞で官位が昇進することはありませんでした。対照的に、清盛の長男である重盛は大きく昇進しました。これは、重盛を自身の後継に据えたい清盛の意向によるものではないかと見られています。

 その後、頼盛の官位も昇進し、平氏としては3人目となる公卿入りを果たします。しかし、その後、都から離れた太宰府に赴任させられるなど、清盛からは冷遇に近い扱いを受けます。さらに1168年には一時、官職をすべて解任させられ、失脚に追い込まれています。

 その後、頼盛は清盛に従順な姿勢を取るようになったことで復職を果たしました。しかし清盛からは、息子・重盛のライバルになり得ると思われたのか、警戒され続け、清盛に頼盛が討伐されるという噂も一時囁かれたと言われています。