京都で置き去りに

 1180年、源頼朝が鎌倉で挙兵し、翌1181年には清盛が病死します。平家一門は、既に病死していた重盛ではなく、清盛の三男である平宗盛(たいらのむねもり、1147~1185年)が率いるようになります。

 そんな最中、木曾義仲(きそよしなか、1154~1184年)が平家の軍勢を打ち破り、京都へと迫ってきました。この軍勢に備えるため、宗盛は叔父である頼盛に、京都中心部から東側にある山科への出兵を要請します。頼盛はこれに応え、軍勢を率いて山科へ向かいました。

 しかしその直後、後白河法皇が平氏を見限って比叡山に脱出したことを受け、宗盛は平家一門を引き連れて京都から撤退することを決断します(平氏の都落ち)。この時、混乱からか山科にいた頼盛には撤退の連絡が届かず、結果的に頼盛は置いてきぼりを食う羽目となりました。

 既に木曾義仲の軍勢が目前にまで迫っていましたが、守るべき一族は、既に逃げ出した後でした。こんな状況に頼盛は、かねてから親交が深かった後白河法皇、そして鳥羽上皇の娘で当時の宮廷で隠然たる実力を持っていた八条院(はちじょういん、1137~1211年)に身柄の保護を求めます。快諾した両者の保護もあって、木曾義仲による1183年の京都占領後も、頼盛は捕縛、処刑されることもなく京都に居残ることができました。