(文:松田美智子)
菅原文太がこの世を去って7年が経った。『仁義なき戦い』『トラック野郎』の大ヒットシリーズの印象が強烈だが、その素顔は役柄とはだいぶ異なっていたようだ。ドヤ街暮らしから一転、ファッションリーダーとなった若き日々。下積み時代の意外な縁。そして夫人だからこそ知るエピソードを、ノンフィクション作家の松田美智子氏が紹介する。
本年11月28日は、菅原文太の8回目の命日である。
文太が目標にした高倉健は、奇しくも同じ年の11月10日に逝去しており、昭和の大物スターの相次ぐ訃報に落胆されたファンも多いことだろう。
高倉は孤高が似合うスターだが、文太は『仁義なき戦い』に代表される群衆劇、あるいは『トラック野郎』や『まむしの兄弟』シリーズなどのコンビ物で輝いた。高倉が去ったあとの東映を支えたのは、文太と言っても過言ではない。
今年6月に上梓した『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社刊)では、文太の俳優人生に焦点を絞った。今回は文太の生涯の伴侶であり、マネージメントも担当していた文子夫人の証言を交え、彼に大きな影響を与えたシーンを中心に据えて、81年の人生を振り返る。
家を出た母に代わって文太を支えた祖母
1933年8月16日、文太は宮城県仙台市で生まれた。父の菅原芳助は地元の新聞社「河北新報」の記者で、文太は長男、一歳違いの妹がいる。兄妹の境遇に大きな変化があったのは文太が3歳の頃。両親が離婚し、母親が家を出て行ったのだ。
この事実が文太の心に癒しがたい傷を残す。
妻が去ったあと、芳助は、幼い子供たちを実家に預けることにした。実家は栗原郡一迫町(現・栗原市一迫)にあり、地域では有名な豪農の家だった。
「一迫で暮らした歳月は彼の心身を鍛え、生きる上での大事な骨格を作ったと思います」
そう語るのは文子夫人である。実家には従兄弟にあたる男の子が3人いて、文太を子分扱いにした。居候のような肩身の狭い思いだったが、祖母が慰めてくれたという。
「祖母は心温かな人だったようで、誰もが言葉の端々に人柄を懐かしんでいました。その庇護の下にあったことは夫にとって幸せです。実家は町一番の土地持ちだったようで、近隣の人から見たら夫も豪農の家の坊ちゃん。その大らかさが彼には残っていました」
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