外国の女性は交接時において日本人よりも積極的に主導権を握ってくる傾向がある。

 また、日本人は喘ぎ声を吐くように漏らすが、欧米の女性は息を吸いながら喘ぐ。そんな外国の女性の痴態と情交を伊藤は観察しながら愉しんだという。

外人女性との情事の果て、伊藤の留学資金は底をついた

 日露戦争(1904-1905)後、伊藤は朝鮮、満州の処理にあたり初代韓国統監(1905)として韓国の国内改革に取り組んだ。

 山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥は韓国の直轄を主張していたが、伊藤は韓国併合に否定的だったため対立したが、韓国の国力がつくまで保護国化やむなしと感じていた。

 1909年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフとの会談を終えて、満州のハルビン駅に降り立つと、伊藤に銃弾が撃ち込まれた。

 韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されたのである。

 驚倒した伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫ぶと、撃ったのは朝鮮人だと知らされた。伊藤は身悶えながら「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呻いた。

色情宰相・伊藤が多くの女性を愛したわけ

 近代日本の基礎を築いた伊藤博文は、自身でも1000人の女性と性交したと豪語している。「掃いて捨てるほど女がいる」という意から「箒」という渾名がついた。

 伊藤にとって人生の意義は、女性との歓喜にあり。それなくしては、生きながら死んだようなものだという。

 その遍歴は『恋の伊藤博文(谷槌禅罵著:日東館書店刊:1902年)』に詳細に綴られている。

 伊藤は生涯2度の結婚をしている。

 最初の妻となったのはすみ子。松下村塾の中で四天王と呼ばれた高杉晋作と肩を並べる秀才、入江九一の妹である。