大間原発(写真:橋本 昇)
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(フォトグラファー:橋本 昇)

 不夜城のように光輝く都会に暮らし、日夜エアコンに快適さを求めながら、それらを生みだすエネルギーの源について深く考えた事はなかった。原発を目にした事もなかった。福島第一原発の事故が起きるまでは・・・。

 事故後、福島で取材を続けたが、それは原発と共に暮らすことの危険を実感する体験だった。放射能に汚染された町から人影は消えていた。目には見えない放射能が不気味で恐ろしかった。

 それが原発のある町を訪ねるきっかけだった。2011年6月、原発事故から3カ月後のことだ。

一般の町民までもが「ダメダメ、話す事はなんもねぇー」

 青森県大間町は今は高級マグロで全国的に有名だが、以前は「死に来た半島」などと揶揄もされた下北半島の先端の小さな漁村だった。津軽海峡の曲がりくねった海岸線をひたすら走り、幾つもの山間を抜けてようやく辿り着いた大間には春の花タンポポが咲き乱れていた。漁港からすぐの高台に建設中の「大間原発」が見えた。大間原発はMOX燃料を燃やす原発として核燃料サイクル担い手として期待されていた。

 しかし、この町では原発の話はタブーのようだ。町民たちは原発の話を切り出すと誰もが途端に顔色を変え「ダメダメ、話す事はなんもねぇー」と逃げるようにその場を去って行く。

「この町に突然、原発誘致の話が持ち上がったのは俺がまだ子供の頃だ。その頃はみんな貧乏だったのが、漁師たちは皆で反対したよ。そりゃー威勢がよかったよ」

 港のすぐ近くに住むという男性がやっと重い口を開いてくれた。

「だが電源開発さんはあの手この手を使ったらしい。畑仕事の手伝いまでしてね。飲み代ただの飲み屋を開いたり、豪華温泉旅行なんて接待もあったらしいよ。札束も飛んだろうし、それで反対派を切り崩したんだな。俺は子供だったからおこぼれなんか回ってこなかったけどね」