タカタの北米子会社(2014年ミシガン州、写真:AP/アフロ)

タカタの運命を変えた大規模リコール「タカタショック」が起きたのは2014年。だが2000年にはすでに時限爆弾が埋め込まれていた。果敢な勝負をしようと大きな意思決定を行う時、経営者と組織内部との意思疎通は十分にできているだろうか? タカタの倒産事例は、その確認が重要であることを私たちに教えてくれる。(JBpress)

※本稿は『世界「倒産」図鑑 波乱万丈25社でわかる失敗の理由』(荒木博行著、日経BP)より一部抜粋・再編集したものです。

 前回は、一度成功した企業が、重要な戦略変換のタイミングで二の足を踏んで変われずに倒産してしまったパターンとして、コダックの例を紹介しました。

いち早くデジタル化に着手したコダックがなぜ倒産?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67234

 今回は、トップと現場の距離感が離れ過ぎていて、組織としての機能不全が理由で倒産に至った例として、タカタを取り上げます。

織物製造業が開発したシートベルト

 タカタは1933年、高田武三氏が織物製造業として滋賀県彦根市で開業しました。当初は織物の技術を活かして船舶に使われるロープを製造していましたが、戦時中はその技術をパラシュートのひも製造にも転用し、多角化を進めます。そして、タカタの本業となる自動車業界参入の転機は戦後に訪れました。

 1952年、武三氏がパラシュートの視察でNACA(米航空諮問委員会)を訪れた際、貴重なパイロットたちが交通事故で亡くなることが多発しており、死亡事故を防ぐために自動車用シートベルトの開発が行われていることを聞いたのです。そこに市場のポテンシャルと自社技術の可能性を感じた武三氏は、帰国後にすぐにシートベルト開発に取り掛かりました。

 そして開発に取り組む傍らで、ホンダ(本田技研工業)の創業者、本田宗一郎氏にシートベルトの重要性と標準装備の提案を行うのです。

 宗一郎氏は即座に理解を示し、1963年、タカタの提案を取り入れ、日本初のシートベルトを標準装備した「S500」を販売します。当初は巻き取り装置のない2点式シートベルトでしたが、1970年代になるとベルトの緊急ロック機構を備えたELR(Emergency Lock Retractor)へとアップデートし、タカタは日本のシートベルトの高度化を牽引しました。

 1974年に武三氏の息子である重一郎氏が社長になると、自動車への関与をさらに深めます。それは、「エアバッグ」へのチャレンジでした。1970年代中盤からアメリカではエアバッグが徐々に実用化されていましたが、タカタも1970年代後半から徐々にエアバッグの開発を進め、1985年にはメルセデスベンツにフロントエアバッグを供給するに至ります。

エアバッグ量産化がその後の成長を支えた

 そして1980年代後半、付き合いの深いホンダから、量産向けのエアバッグの共同開発を依頼されました。タカタはリスクが高い量産を一度は断ったものの、ホンダの技術者が重一郎氏に懇願したことを受けて、量産化に踏み切ることになります。その結果、1987年に日本メーカーとして初めてエアバッグを搭載した「レジェンド」が世に出ることになりました。