人的被害についても同様です。史料によって数字に大きな隔たりがあるため、今でもよく議論の的になります。

 中国側の史料によると、台風を受けて壊滅した元軍のうち、本国に帰還できたのはごくわずかとされ、中には9割が帰還できなかったと書かれた史料もあります。また、元軍の前線拠点だった鷹島に一部の将軍らが10万人もの兵を置き去りにして帰った、とする史料もあります。

 一方、服部英雄氏は、弘安の役において置き去りにされ、捕虜となった元軍兵士の数は、日本側史料に書かれてある2000人に近い「3000人程度」であったと推算しています。

 これらの置き去りにされた捕虜について、中国側の史料には「ほぼ全員殺され、生き残ったのはほんの数人だけだった」と書かれています。また朝鮮側の史料である「高麗史」では、技能を持つ者だけが生かされ、残りは殺されたとされています。

 まるで日本側が捕虜を残忍に扱ったような書きっぷりですが、実際には、少なくとも皆殺しはなかった模様です。日本側の史料によると、元軍の捕虜の処遇をどうするかを幕府に伺う文書があり、幕府側はみだりに捕虜を殺さないよう通達を出していたようです。

 また弘安の役から11年後、高麗の使者が日本人の漂流者を日本に連れてきたことがあり、その際に弘安の役の捕虜が日本で生きていることが報告されています。

 以上を勘案すると、日本軍の残虐性を誇張するため、また敗戦の事実を糊塗する目的からか、「捕虜は皆殺しにされた」という見解を中国側が広めていた可能性も濃厚といえるでしょう。

 今回は弘安の役に関するトピックを取り上げました。最終回となる次回は、現在の中国における元寇に対する見方や反応を紹介します。

・参考書籍:『蒙古襲来』(服部英雄著、山川出版社)