これまで、高麗朝が船を造る際、納期が短かった上、元の支配に対して反感を抱いていたことから手抜きをしたのではないか、そのため高麗船は強度が不足しており、台風時の被害拡大につながったのではないか、という説が唱えられてきました。

 しかし、この説は、現在はほぼ否定されているようです。というのも、実際に当時元軍が使用した軍船そのものが見つかっているからです。

 その軍船とは、鷹島(長崎県松浦市)沖の海底にある「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」の沈没船です。

 この沈没船は、元寇で使用された高麗船であると判定されています。調査によると、この船は船底を二重構造にして丁寧に組み立てられており、同時代の船としては類を見ないほど頑丈な造りだったとのことです。

 また中国側の史料にも、台風時に多くの軍船が沈む中、高麗船は沈まずに耐え切った船が多かった、との記録があります。研究が進むにつれ、「高麗船手抜き説」は今では過去のものとなりつつあるようです。

『蒙古襲来絵詞』に描かれた弘安の役における元軍船

捕虜は皆殺しにされた?

 以上のように、弘安の役で元軍が受けた台風被害に関しては、これまでやや虚実入り混じった内容が伝えられてきました。