元軍が九州への上陸に手間取っている間、いつしか時期は台風シーズンに突入します。そして7月末から8月初めにかけ、大型の台風が九州北部を通過し、軍船をはじめ元軍に大きな損害をもたらしたとされています。

 なおこの台風は元軍だけでなく日本軍にも大きな損害を与えたとされ、台風通過後は日本側も軍船の調達が困難になったという記録が残されています。

 以上のように、確かに日本を助けるかのように台風が元軍に大きな打撃を与えたわけですが、その台風が来るまでの間、日本側が約2カ月にわたって防戦し続けた事実を見逃すことはできません。現代中国の評価においても、弘安の役の元軍の敗戦理由は日本武士団の頑強な抵抗によるもので、台風は最後の追い打ちをかけただけ、という見方がなされているようです。

『蒙古襲来絵詞』に描かれた、元軍と戦う御家人たち

高麗船は手抜きだったのか?

 台風による元軍の被害が大きかった理由の1つとして、彼らが軍船に使用していた「高麗船(こうらいせん)」が手抜きで造られたからという説がよく唱えられてきました。

 元軍が日本侵攻に使用した軍船の多くは、当時、元朝に服属していた朝鮮半島の高麗朝が元朝に命令されて造船したものでした。この船が「高麗船」と呼ばれています。