奈良県桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)の拝殿(Saigen Jiro, CC0)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 奈良へ行くようになったのは定年退職後のことである。年に夏と冬の2回行くから、これまで20回以上は行ったことになる。行くのはいつも6月と12月、桜と紅葉の時期には遅いシーズンオフである。桜や紅葉の盛りを見てみたい気はあるのだが、混雑していないことが優先である。それで不満はない。

住んでいた土地巡りをしたあとで

 退職した当時は、だれもがやるように、これまでに住んだ場所巡りをした。18歳で上京して最初に住んだ千歳烏山(東京都世田谷区)。その町で3か所転居したが、一番懐かしいアパートを訪ねた。おなじ場所にあったが、現代風なものに建て替わっていた。そりゃそうだろう、50年以上も前のことだから。

 そのあとに住んだのは北浦和(埼玉県さいたま市)だ。この町は好きだったが、道順がさっぱりわからなくなっていた。元々記憶力がよいほうではない。この辺だったかな、と見当をつけた場所は、コンビニになっていた。

 北浦和に住む前、家族は松本市(長野県)に住んでいた。学生時代の帰省先である。この街もわたしにとっては懐かしく、松本城や本屋の遠兵や民芸喫茶のマルモにはよく行った。退職後、街中をレンタル自転車で回ったが、父母が住んでいた家は、保険会社の社員寮になっていた。

 昔住んでいた土地巡りが一通り終わると、なにもすることがなくなり、ふいに奈良に行ってみようと思った。それもひとりで。映画と旅はひとりで行く、というのがわたしの鉄則で、退職を機に、ひとり旅をしてみようと思い立ったのである。4泊5日の奈良。

母親の故郷だった

 ひとり旅がいいのは、なにを決めるにも揉めることがないことである。どういう計画を立て、どこに行き、なにを食べ、いつ休息をとるか、即断即決。自分の自由である。ひとり旅は、コロナ禍にあっても、もっとも相応しい旅のかたちである。だれと話すことも、騒ぐこともない。ばか笑いもなく、新幹線の席を回転させることもしない。

 見知らない町を歩く。荷物はボディバッグひとつ。なかにはデジタルカメラと文庫本。尻ポケットには地図。両手にはなにも持たない。たいがいの距離のところは歩いていく。なにからなにまで自由で、これがひとり旅の醍醐味である。

 なぜ奈良だったのか。母親の故郷、ということが一番大きいかもしれない。子どものころから話はよく聞かされ、とくに「猿沢の池」という地名は刷り込まれた。長じて、老いた両親と奈良を歩いたことも、記憶のどこかにあった。