2012年3月、東日本大震災から1年を迎えるのを前に東京で開かれた被災者と犠牲者に思いを寄せるイベントにて(写真:橋本 昇)
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 2011年の東日本大震災。福島県は地震と津波、そして原発事故に見舞われた。震災直後から被災地入りしたフォトグラファーの橋本昇氏は、その後も福島県の各地に通い続け、人々の声に耳を傾け、その表情を写真に収めてきた。
 震災から10年を迎えた今、この間、福島の人々はどのような感情をいだき、どのような決断をしてきたのか。橋本氏が自身の写真と文章で振り返る。(JBpress編集部)

2011年7月 大熊町

(フォトグラファー:橋本 昇)

 車の前を3、4頭の黒牛が走り抜けた。原発事故による避難で牛舎から解放され、この数カ月の間好き勝手に野山を動き回った牛たちは、体中の筋肉が引き締まり、まるでバッファローのように逞しい。

 原発事故から4カ月、車窓から見える光景は季節が移っていた。森の木々は眩しいばかりの緑に変わっている。ただ、町にも森にも人はいない。

 海岸部には、津波で壊れた建物が手付かずのまま風雨に晒されていた。そこに花や果物を供えた簡素な祭壇が設けられた。津波の犠牲となって亡くなった12人の合同慰霊祭がこれから始まる。参加者は50人程、足先からすっぽり覆う防護服に身を固め、頭にヘアーキャップ、顔にはマスク、手にはゴム手袋という姿だ。

 全員で黙祷。僧侶の読経が海風に流れていった。

2011年7月、大熊町。合同慰霊祭でお経をあげる僧侶も防護服で全身を覆った(写真:橋本 昇)
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 一人の女性が海岸線をしばらくじっと見つめたていた。そして、少し歩いた先の野草の中に花束をそっと置いた。

「亡くなった方々は今の姿を天国からどう見ているんでしょう。実家の仏壇に線香を供えることもできず、墓参りもできず、きっと寂しいでしょう。原発事故を恨みます」

 女性の目から頬に涙が流れ落ちた。

2011年7月、大熊町。津波の犠牲者を弔う合同慰霊祭に集まった人々(写真:橋本 昇)
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