二年前、避難先に訪ねた時の鴫原さんは、東京電力との補償交渉の難航や、一方で聞こえてくる「あいつらは仕事もせずにブラブラ遊んで、補償金でのうのうと暮らしている」というまわりの陰口にストレスを溜めていた。
「はやく長泥に戻りたい」と、慣れない土地での暮らしに疲れているように見えた。あれからどういった生活の変化があったのだろうか?
改めて鴫原さんの顔を見つめた。
車が飯舘村に入った。村は雪も少なく、大気にはもう春の微かな匂いが感じられた。村の春の木々は命の芽吹きを予感させる。しかし、地面に目をやると、鋤の入っていない畑や田んぼの土はひび割れ、枯れ草に覆われていた。
人の営みの絶えた里山を車は走り抜けた。途中、除染作業のトラックが何台も通り過ぎる。フレコンバッグに入れられた汚染土が広大な敷地に積み上げられていた。しかし、これはまだ村の面積のごく一部の土にすぎない。家屋の周りや農作地から除染作業が進められているが、日本有数の面積だという飯舘村、しかも村の約8割は山林や森だ。気の遠くなるような作業を抱えながら村は震災四年目を迎える。
一年ぶりの我が家
「我が家に入るのはもう一年ぶりかな」
そう呟いて、鴫原さんは玄関の鍵を開けて家の中へ入った。
「この家はちっとも変わってねぇ。変わったのは俺の心だ」
鴫原さんは、所在なげにガランとした部屋の畳に座り込んで、周りを見回した。仏間の壁には先祖の写真が残されていた。
「この部屋で、今は原子力規制委員会の委員長をしている田中俊一さんと、酒を飲みながら長泥の行く末を語り合ったなあ。行く末なんて無いんだがね・・・」
村の神社に向かった。鴫原さんがかつて長泥銀座と呼んだ国道の十字路には今、「立ち入り禁止」の看板が置かれていた。あの「マイクロシーベルトがうらめしい」モニタリングのデータ表が、掲示板に張りついたまま変色している。
神社の鳥居に新しいしめ縄がかかっていた。
「この縄を掛けて簡単な祭りをしたんだ。今更祭りでもねぇべーって笑われたが、神社は今でも離ればなれになった俺らを守ってくれているんだ」
鳥居の傍らで、真っ赤な帽子を被った2体のお地蔵さんが静かに微笑んでいた。
「あそこに見える大きな家が俺の爺ちゃんの家だ。今の俺の家は爺ちゃんから土地をもらって分家したんだ。長泥は他の地区より米の出来も悪い、地価もうんと安い。でも生まれ育った所だからな」
そう話す鴫原さんの口ぶりも以前とは違う。どこか吹っ切れたような話し方だ。
「もう、あんまりこっちには来ていないんだ・・・。ここに戻る気持ちもなくなったよ。家族がみんな反対しているのに、俺ひとりでは帰れないだろ」
鴫原さんは福島市内に新しい家を見つけてリフォームしていた。夏までには引っ越す予定だという。
鴫原さんの心の中で、長泥は一枚の風景写真となった。人はそういう風景写真を何枚も溜めながら、新しい暮らしを紡いでいく。
長泥地区は10年経った今も立ち入り禁止が続いている。鴫原さんはその後、長泥の家を壊した。
先日の電話では「孫も高校生になった」と、話に花が咲いた。鴫原さんの笑顔を思い出した。