曇ったマスクから見える線量計のデジタル表示が、20~30マイクロシーベルトの間を行ったり来たりと忙しく変わり、サイレンスになっているアラームがずっと警告を続けている。その中で作業員たちが汚染水タンクの配管部分に取りついていた。絶え間ない被爆と、全身の皮膚がふやけてしまいそうなこの梅雨の蒸し暑さ。まさに体を張った過酷な作業が続けられている。

2013年6月、福島第一原発。重装備の作業員が文字通り命がけの作業に当たっていた(写真:橋本 昇)
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 途中ふと和んだのは、ビーチパラソルの下に座った警備員の姿。原発とビーチパラソル、そしてその下の防護服。なんとも奇妙な光景だった。

2013年6月、福島第一原発。緊迫した空気の中、ビーチパラソルの下で休息を取る作業員の姿に少し心が和んだ(写真:橋本 昇)
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 さらに進んで建屋の前に着いた。もちろん中の様子は何も見えない。建物の外観だけの撮影だが、この状況で見ると、やはり凄みのようなものを感じる。この建屋では、事故収束と廃炉に向けての作業がこれからも延々と半世紀の単位で続く。今日生まれたばかりの赤ん坊が50歳になり、子の親となっても、まだ完全収束には至らない。気の遠くなるようなスパン。

 今回の原発事故は、あわや首都圏壊滅という危機の一歩手前まで日本を追い込んだ。首都圏壊滅を免れたのはまさに土壇場での奇跡だった。

 これは電力会社や国だけの責任だと言えるのだろうか? 科学技術の発展は、我々に豊かな生活を与えてくれた。もはや、我々は電気・電力を湯水のごとく使う生活から離れる事は出来ないだろう。豊かな生活と安全が共存して、初めて科学技術への信頼は生まれる。しかし、豊かな生活を支える科学技術への信頼の為には、安全性への信頼もまた不可欠だ。我々には、これから先のずっと先までの人間を含むあらゆる生き物の生命に対する責任を持たなくてはいけない。原発事故は我々一人一人に突きつけられた問題なのだ。

 原発周辺に取り残された家畜やペット、そして目の前を走り抜けた野生にもどった牛の姿を思い起こしながら、建屋の前でそんな事を考えた。

2014年3月 飯舘村長泥地区

「鴫原さんいかがですか?」

「はい、何とかやっています」

 電話の向こうの鴫原さんの声を聞くのは一年ぶりだった。

 鴫原良友さん一家が原発事故による放射能汚染で飯舘村から福島市内の公務員住宅に移ったのは2011年6月。この6月で丸三年になるが、鴫原さんが地区長をしていた長泥地区は飯舘村の中でも特に放射線量値が高く、今も道路がバリケード封鎖され、住民の立ち入りも大幅に制限されている。

 2014年3月、許可を得て一時帰宅するという鴫原さんの車に同乗させてもらい、長泥地区に向かった。運転をしながら鴫原さんはよく喋った。声も明るく、久しぶりに会った顔からも、何か憑き物がとれたような清々しさを感じた。