食べられぬマツタケ

 2012年3月初旬、再び佐藤さんを訪ねた。震災から一年、飯舘村は春にはまだ遠く、身を切るような寒風が山から里へ吹き下ろしていた。膝まで埋もれる残雪に冷たさを感じながら佐藤さんの家の前の坂道を登り縁側のガラス戸から声をかけると、二人は居間の炬燵に首まですっぽりと身を潜らせていた。

「よく来たな」

 家に閉じこもって退屈していたのか、久し振りの話相手に佐藤さんは嬉しそうによく喋った。隣でヒサノさんがニコニコと話を聞いていた。

「俺らの事が新聞か何かに出たみたいで、九州の女の人が靴下まで送ってきてくれたよ」

 と、佐藤さんは手編みの靴下を出してきた。

「有り難いね」

 くゆらす煙草の煙が古茶けた柱を伝い天井へ昇っていく。

「また寄らせてもらいます」

 そう言葉をかけた帰り際、

「あいよー!」

 と、ヒサノさんの声を初めて聞いた。

2012年3月、周囲の人々が避難した後も飯舘村で暮らしていた佐藤さん(写真:橋本 昇)
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 それからも何度か福島に行く度に佐藤さんのお宅を訪ねた。いつ行っても佐藤さんはこちらを元気にするような笑い声で迎えてくれた。

「お元気そうですね」

「あー、何も変わらんよ。このとおりで――」

 そしていつも、笑い声と共に話は弾んだ。お孫さんがサーフィン大会で優勝した事、裏山で松茸がたくさん採れたのに誰も食べてはくれない話・・・等々。

「ありゃー放射能がいっぱい付いておるんか」

「そうですよ。食べられませんよ」

「うまいんだがなぁ」

 もしかしたら揄われていたのかもしれないが、そんな佐藤さんとの会話は楽しかった。原発事故などの付け入る隙もない二人の暮らしが続いていた。