2013年3月11日 浪江町
常磐線浪江駅。震災から2年、電車の通らなくなった線路のコンクリートのわずかな隙間には雑草が伸び、東京方面へ続く線路の先は、鬱蒼と茂った枯れ草の中に埋もれて消えていた。駅の駐輪場に置かれたままの自転車に蔦が絡み付いている。
2年が過ぎた今も、警戒区域にある浪江町は、一部の地域を除いて依然として人の立ち入りが制限されたままだ。震災で倒壊した民家も震災直後のままに放置せざるを得ない。仮に汚染された建物を解体したとしても、警戒区域の外には持ち出せない。
復興の足音も聞こえて来ない現状を目の当たりにして、改めて起きてしまった事の重大さ、そして目に見えない放射能というものの不気味さを感じる。
「警戒区域」という言葉の意味は想像をはるかに超えて重い。
海岸線の岸壁に、手を合わせる二人の女性の姿があった。
「どなたかのお参りですか?」
「夫がまだ見つからないんです・・・」
山崎さんというその女性は、漁師だったご主人が行方不明だと言った。
「夫は地震が起きた時、漁を終えて港へ戻り、岸壁に繋いだ船の上にいたそうです。しばらくして、津波が来るというので慌てて船を沖に出そうとしたようですが、間に合わなかったのですね。防波堤を出るところで、船は押し寄せた津波にあっという間に呑みこまれて転覆したそうです」
山崎さんはその時の様子を仲間の漁師から聞いたのだが、どうしても夫の行方不明を受け止める事ができなかった。ずっと、もやもやした気持ちを抱えたままいわき市で暮らしてきたが、命日の今日、夫がいなくなった港がたまらなく見たくなり、立ち入り許可証をもらって友人とここを訪れたという。
「ここからお父さんに話かけました。少し気持ちの整理ができました」
これから自宅の様子を見に行くというので同行させてもらった。
山崎さんの家は常磐線の線路際にあった。建物は震災の大きな被害もなく、一見、何も変わった様子はなかった。ところが、家の中に入った途端、皆で声を失った。居間の中をネズミが走り回っていたのだ。奥の方からは、ガサガサと気味の悪い音もする。突然現れた人間に、ネズミたちが我先にと逃げ場を探していた。