(乃至 政彦:歴史家)
中世、江戸時代の男性同士の関係を指す「男色」や「衆道」。今日でいう「同性愛」、つまり対等な同性同士の恋愛ではなく、年長の男性が年少の男子を愛玩する肉体の関係だった。小説やゲームなどでも描かれることの多い武田信玄と高坂昌信について、上杉謙信の関東遠征の真相を描く話題の書籍『謙信越山』の著者、乃至政彦氏が、一次資料をもとに真相に迫る。(JBpress)
武田信玄の性的疑惑
今回は武田信玄と高坂昌信(春日虎綱)のある疑惑を見てもらおう。世間一般には、2人が性的な関係にあったと思われている。
ある硬派な歴史ゲームで、2人に相撲を取らせると、信玄が「ああ、このままずっとがっぷり四つでお主といられれば・・・」と呻き、昌信も「・・・もう昌信はとろけそうなほど殿にまいっております」と囁くようなシーンがある。このやりとりを見たプレイヤーたちが、「あ」と何かを察する顔で黙ってしまうというぐらい有名な関係とされている。
まずは、この時代の男性同士の性的関係を指す「男色」という言葉について、簡単に説明しておきたい。まず男色は「なんしょく」と読む。「だんしょく」ではない。同種の意味を指す「衆道」も「しゅうどう」ではなく、「しゅどう」と読んでほしい。
そして男色は、今日でいう「同性愛」ではない。こう言うと一部からお叱りを受けることもあるが、男色や衆道は、対等な男性同士の恋愛ではなく、年長の男性が、年少の男子を愛玩する肉体の関係だった。
少なくとも中世の武家社会において、成人男性同士の恋愛はほとんど見られない(公家社会では『台記』に見える藤原頼長の事例が有名だが、成人男性同士が性娯楽に興じているだけで、「男色」とは異なる)。もし男性同士の恋愛が自由だったなら、女性同士の恋愛も謳歌されて然るべきだが、どちらの同性愛も中世の史料でおおっぴらに楽しまれた形跡は検出されていないのだ。
男色は、男性風の役割を年長者が、そして女性風の役割を年少者が行うのがフォーマルだった。要するに「少年愛」である。当時の日本は現代の世界が見習うべき「同性愛天国」と言える文化の実在は特になく、あったのはあくまでも少年愛の自由だけであった。
しかもこれらは当時から児童への性的虐待として、非難されることもあった。例えば、江戸時代には幕府が男色を「無体」として禁止する例があり、近世の仮名草子『田夫物語』にも、田舎の農民が都会の武士に向かって「男色なんて無体な真似は、早くやめたまえよ」と蔑む描写がある。
これらは同性愛への差別ではなく、未成年である男子児童への性的搾取があり、同時にこれを抑止しようとする大人たちもいたことを示すものである。
余談ではあるが、幕末の新撰組隊士が「局中で、男色が流行っている」という記録を残しているが、これは隊士同士の関係ではなく、男色専門の風俗店で買春する隊士が増えたと読むのが妥当だろう。