(田丸 昇:棋士)
名人を獲得した棋士はたったの15人
上の写真は、2012年(平成24)4月に都内ホテルで開催された名人戦(森内俊之名人ー羽生善治二冠)7番勝負第1局の前夜祭での光景である。歴代の8人の名人経験者が一堂に会した。
右から、佐藤康光九段(42)、加藤一二三・九段(72)、羽生二冠(41)、中原誠十六世名人(64)、森内名人(41)、米長邦雄永世棋聖(68)、谷川浩司九段(50)、丸山忠久九段(41)。※上記の棋士の肩書と年齢は2012年4月時点。
ほかに名人経験者の物故棋士は、木村義雄十四世名人(1986年に81歳で死去)、塚田正夫実力制第二代名人(1977年に63歳で死去)、升田幸三実力制第四代名人(1991年に73歳で死去)、大山康晴十五世名人(1992年に69歳で死去)の4人。
また、2016年に佐藤天彦九段(33)、2019年に豊島将之竜王(30)、2020年に渡辺明三冠(36)が、いずれも名人を獲得した。※上記の棋士の肩書と年齢は2021年3月時点。
85年の歴史がある現行の名人戦で、名人を獲得した上記の棋士たちは、わずか15人である。その理由は、大山(名人を通算18期保持)と中原(同じく通算15期保持)が長期に名人に在位したことによる。
さて、2012年の名人戦第1局の前夜祭に、8人の名人経験者が勢ぞろいしたのはなぜか? それを述べる前に、将棋の歴史を振り返ってみる。
日本の将棋の始まりは平安時代
日本の将棋の草創期は、8世紀の平安時代の頃。その後、15世紀の室町時代の頃に、現代の「将棋」が定着した。相手から取った駒を「持ち駒」として再使用できるのは、世界の類似のゲームにはない画期的なルールだった。
将棋は当初、貴族や僧侶が愛好した。戦国時代に移ると、戦略を考えたり戦意を高めるのに役立つという観点から、武将が将兵に将棋を奨励するようになった。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの武将も将棋を愛好した。連歌師、茶人、能役者などの文化人を招いた宴席には、将棋指しや碁打ちも同席した。将棋棋士の始祖となった初代・大橋宗桂は、上記の3人の武将に仕えた。宗桂(旧名は宗慶)は桂馬の使い方が巧みなことから、信長に「桂」の名を与えられたといわれたが、それは後世の作り話のようだ。
棋士を士分に取り立てた徳川家康
徳川家康は、天下分け目の関ヶ原の合戦を制すると、初代将軍として江戸幕府を開いた。1612年(慶長17)には「将軍所」を設立し(「碁所」も)、宗桂らに扶持を与えた。宗桂らは一介の将棋指しから士分に取り立てられ、大橋家や伊藤家などの家元が生まれた。その中から、大橋宗桂が一世名人に就いた。
なお、江戸時代初期の頃は、名人や棋士の呼称はなかった。名人は「上手(じょうず)」、棋士は「将棋指し」と呼ばれた。
幕府の庇護によって、将棋の家元たちの身分と生活は安定した。将棋の研究に打ち込むことができ、武士や町人に指導して将棋を広めた。ちなみに、幕府から家元への俸禄は、現代の貨幣価値で約300万円だったという。決して高額ではなかったが、屋敷も与えられたので、十分に暮らせたようだ。
私たち将棋棋士が今日に存在しているのは、このように家康公が将棋に理解を寄せていたことが端緒となった。