(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)
韓国国会は1月8日、労働者が仕事中に死傷した場合に会社の代表者と経営責任者を処罰するという「重大災害処罰などに関する法律(重大災害法)」を可決した。
この法律案が国会に提出された段階で、韓国の経済7団体は国会近くにある中小企業中央会で共同記者会見を開き、「重大災害法は世界に例がない過剰立法だ」として法制化の中断を求めていた。そうした経過もあって、同法案は与野党の協議で一部修正されていたが、本会議を通過した。成立した重大災害法は、論議に火をつけた正義党案より後退したという評価がある一方で、経済団体からは「企業に厳しすぎる」との悲鳴が上がっている。
反企業体質を隠そうとしない文在寅政権
文在寅(ムン・ジェイン)政権は、「最低賃金を上げれば、消費が増え国民所得も増大する」とする所得主導成長政策を掲げている。しかしこれは世界の経済専門家にはまず見向きもされない発想だ。それなのに文政権は、労働生産性を引き上げることもしないまま、最低賃金を最初の2年間で29%引き上げてしまった。その結果、案の定と言うべきか、多くの自営業者や中小企業は廃業や倒産に追い込まれ、非正規雇用を中心に失業者が増大した。人々が直面したのは、政権の意向とは裏腹に、所得格差の拡大という悲劇であった。
今回の法律は、労働者や市民団体の声に押されたという点で、最低賃金引上げと根は同じだ。深刻な労働災害が相次ぐ韓国で、企業や経営者に安全管理の徹底を促すという点では評価できるが、特徴は産業現場の責任者のみならず、事業主・経営者の責任まで追及しようとしている点だ。もちろん事業主や経営者は、安全な労働環境の整備に責任を持たなければならないが、韓国国会で成立した重大災害法は、その基準も明確でなく、事故が起きた時に、恣意的に経営者や事業主の責任が追及されかねないとして、財界などから猛反発が起きている。
最低賃金の引き上げでは民間企業が大打撃を受けた。そのため、「韓国に投資するものは愛国者」というキャッチフレーズが叫ばれなければならないほど韓国への投資を敬遠する動きが広がったのだが、今回の法律の導入によって、今度は韓国から脱出する企業が続出しそうなのである。
「全ての責任を企業に取らせ、過度の刑を科す」重大災害法
重大災害法では、事業主らが安全教育・対策不備や不注意による事故で労働者が死亡した場合、安全対策を怠った事業主や経営責任者は、1年以上の懲役または10億ウォン(約9500万円)以下の罰金刑となる。法人や機関にも50億ウォン以下の罰金が科せられる。労災で複数人が大けがをした場合には、経営責任者を7年以下の懲役または1億ウォン以下の罰金に処すことも可能となった。
さらに、法律には重大な労働災害を起こした事業主と法人に対し、最大5倍の懲罰的損害賠償を課すという内容も含まれた。ただ、5人未満の事業所は法の適用対象から外し、50人未満の事業所には3年の猶予期間を与えた。
労働組合などの支持を受け、本法案を推進した政党「正義党」は、「全国の事業体のうち5人未満が79.8%だ」として不満を述べ、採決を棄権した。
法案の国会通過に経済界では衝撃が走った。中小企業中央会は最後まで「事業主処罰条項の下限だけでも上限に変えてほしい」と要求したが無視された。また財界側は「事業主が守るべき義務規定の具体化と一部免責」を求めたが、これも実現しなかった。
中小企業団体は「このまま法が施行される場合、元請け・下請け構造などで現場の接点になる中小企業はすぐにも法律違反者になるかもしれないという不安感に常に苦しむ」と途方に暮れている。
企業が韓国から逃げ出す
経済7団体の長は「ひどすぎる」と一斉に反発の声を上げた。
全経連は「明確性原則、責任主義原則など法の原則に背く余地が多い法律にもかかわらず、十分な議論の時間を持たず性急に処理された」と不満を述べた。大韓商工会議所は「すべての責任を企業に取らせ、過度の刑を科している」と主張した。韓国経営者協会も「経営責任者に過酷な処罰を科す違憲的法律だ。ひどすぎる」と批判した。
その中でも、首都圏製造業およそ700カ所を会員とする中小企業協同組合の理事長は「雇用を創出する企業を罪人扱いする国にこれ以上いる必要はない」、「周囲の中小企業代表もほとんど海外に工場を移転することを真剣に考えている」と激怒している。
重大災害法に従おうとすれば、「時間と人件費が倍近く増える」、「元請け会社に対する処罰の負担で大企業の下請けの量も大幅に減少すると予想され心配」との声が経営者から上がっているという。
一方、市民団体は「この法律によって事業主が安全装置を用意し、産業災害が減る」と評価している。ただ、事故が発生した場合、政府の傾向や世論によって事業主に責任を押し付ける一貫性のない判断が下される懸念がある。資本家や経営者が恐れているのがそこだ。
この法律によって労働災害の減少が実現すればよいのだが、それ以上に韓国では企業の事業環境が一層悪化することになりそうだ。
経済界がこぞって反対する法律を12月の臨時国会に提出し、1月8日臨時国会の会期末に成立させてしまった。経済界が驚くほどの早業だ。そのやり方に、韓国企業は怒りと落胆を隠そうとしていない。要するに、企業を敵視するような法律を次々と成立させ、一貫性のない法体系の下で事業を行わなければならないことに、やりきれない思いを抱えているのだ。労働者や市民団体の声に押され、企業経営に重大な影響を及ぼす法案をあっという間に提出・可決してしまう韓国の政府・与党。これでは企業が安定した経営方針と事業計画の下に事業を展開することは不可能である。
この重大災害法は、今後、韓国で製造業を展開しようとする外国企業の気持ちを挫くだろう。韓国企業も、国内の事業を畳み、国外への進出を急速に進めるだろう。これらは、韓国内の労働者にとって「職を失う」という結果を与えることになる。そうなれば、文在寅政権は大きな誤算を犯したことになる。
現在の韓国の政府・与党は、労働者と市民団体の目先の要望に呼応し、国家の大局的な利益を害することを厭わないようだ。それができてしまうのも、文在寅政権が国益よりも理念を重視する政権だからである。
危機管理ができない韓国政府
年明け早々、文在寅政権には危機管理に関する失策もあった。
1月4日、ペルシャ湾を航行していた韓国船籍のタンカー「MT韓国ケミ」がイラン革命防衛隊に拿捕される事件が発生したのだ。
「朝鮮日報」によれば、青瓦台は先月12月の時点で「イランが韓国船籍のタンカーを抑留する可能性がある」との報告を受けていたという。韓国外交部は非常に具体的な内容で「イラン政府あるいは政府機関、政府が支援する団体がホルムズ海峡を通過する韓国タンカーを拿捕する計画を進めている」と11日電文で伝えていたという。
文大統領も関係部署に対して積極的な対応を指示していたという。
2010年、イランは韓国にイラン中央銀行の口座を設け、両国の間の貿易決済はその口座を経由する仕組みができていた。しかし、トランプ大統領がイランへの制裁を強化したことでこの口座は凍結されていた。
イランのロウハニ大統領は、韓国の銀行に凍結されている原油代金70億ドル(約7300億円)の支払いを要求していた。この資金は、イランが保有する海外資産の中でも最大規模と言われる。イランはこの資金の一部を、コロナワクチンの購入に充てようとしたとも言われるが、それも実現できないままである。そのため、韓国への不満が高まっていたという。
一方、韓国政府はこの間、事前の交渉などで事件を未然に防ぐような努力を怠ってきたようだ。イランは昨年から執拗に「代金の支払い問題」について韓国側に解決を要求し、強い圧力を加えてきた。昨年7月にはロウハニ大統領が国際司法裁判所(ICJ)を通じた問題解決を示唆している。
最近になって韓国は、人道的金融取引として、70億ドルの一部、日本円にして約94億円分を支払うことで米国の同意を得ていたという。しかし、イランは米国が信用できず、資金を確実に引き出すための担保として韓国船を拿捕した可能性があるという。
韓国が1カ月前に、韓国漁船拿捕の可能性を察知した段階でイラン政府と交渉を進めていたならば、この事件は未然に防げた可能性もある。しかし、韓国政府はそこまで本腰を入れた対応をしていなかったようだ。
韓国籍のタンカーは危険を冒してホルムズ海峡を航行している。ならば韓国政府にはその安全を守る義務がある。それなのに、タンカーがイラン側による拿捕の可能性について知らされず航行していたとすれば、今回の事件は韓国政府による人災と言えよう。これでけが人や病人が出れば、まさに「重大災害法」が適用対象となるべき事態ではないか。
振り返れば、文政権の危機対応は失敗の連続である。南北首脳会談の軍事合意によって38度線の偵察飛行を中止しておきながら、脱北者らによるビラ散布を受けて態度を硬化させた北朝鮮が軍事行動を示唆すると、南北共同連絡事務所をやすやすと爆破されてしまった。
北朝鮮に対する危機管理が不十分だったことを物語る事実だが、北朝鮮がこのような行動に出た以上、その後は北朝鮮への危機管理を強化しなければならないはずだ。しかし、文政権の行ったのは真逆のことだった。ビラ散布禁止法を制定し、北朝鮮の脅しに唯々諾々と従う姿勢を見せただけだった。
今回のタンカー拿捕事件も、北朝鮮に対する甘い危機管理と同じ脈略でとらえられるだろう。現在は世界中の国々が国難と言っていい状況にある。もちろん韓国もそうだ。そうした中も、政府は自国の国民や企業の安全と財産を守るため、最大限の努力を尽さねばならない。それができないのであれば、その政府は政権を握る資格はない。
株価指数の上昇はバブル崩壊の前兆
こうした状況にありながら、実は韓国の株式市場は空前の株高に沸いている。
韓国の株価指数KOSPIは1月6日、史上初めて取引時間中に一時3000ポイントを突破した。2007年に2000ポイントを超えてから実に13年5カ月かけて大台を突破したことになる。半導体とインターネットを筆頭としたIT分野、そして最近ではバイオ企業が相場全体を押し上げた結果である。
「3000ポイント」は李明博(イ・ミョンバク)大統領時代からの念願だった。そのためか文在寅大統領は、3000ポイントを目前にした時点で、新型コロナ防疫と経済性を強調、「今や『コリア・ディスカウント』時代が終わり『コリア・プレミアム』時代に進もうとしている」と自画自賛してみせた。
しかし韓国の経済専門家の間でも、KOSPIの急激な上昇は韓国経済の健全性の証とは捉えられていない。実体経済を伴わない「金融バブル」であると韓銀総裁、経済副首相がともに激しく警鐘を鳴らしているのだ。
李明博、朴槿恵(パク・クネ)時代には、不動産奨励策が株価を上げた。朴時代の崔ギョン煥経済副首相は「金を借りて家を買え」というほど不動産市場への資金投入が推奨された。しかし、現政権は不動産価格のあまりの暴騰で批判を浴び、目下、不動産市場への資金流入を断ち切った状態にある。そのため金融緩和で余った資金は株式市場に集まるほかなかったのだ。そこに500~600万人と言われる個人投資家も参入してきた。
株式市場は、新型コロナ流行初期の昨年3月に1500ポイント以下に落ち込んだが、そこから急激な上昇カーブを描き、1年足らずで倍の水準となった。その一方で実体経済を見れば、新型コロナをきっかけとする不況に耐えきれずに「廃業」する自営業者が激増している。もしも今、韓国の株式バブルが破裂すれば、市場の新参者である個人投資家の大半は深い傷を負うことになるだろう。
実際、バブルの進展を示すデータはいくつもある。例えば国内総生産(GDP)比の証券市場時価総額の比率で証券市場の過熱水準を示す「バフェット指数」は昨年既に123.4%まで上がり過去最高を記録している。指数が80%以下なら市場は低評価、100%以上なら高評価されたとみなされる。専門家の間では3月から再開されるカラ売りがバブル崩壊の最初のシグナルになりかねないと懸念の声が上がっている。
株式市場に新規参入してきた個人投資家の資金は借金によるものだ。昨年7~9月期に家計・企業・政府という3大経済主体が抱えた借金は4900兆ウォンに迫る。特に家計と企業の借金はそれぞれGDPの101.1%、110.1%で専門家が債務過多と判定する臨界値を超えた。
李柱烈(イ・ジュヨル)韓銀総裁は5日、「政策当局と金融業界の流動性供給と利子償還猶予措置などで潜在していたリスクが今年は本格的に表れると予想される」と警戒感を露わにした。
また、洪楠基(ホン・ナムギ)経済副首相も「コロナ危機の中でも金融市場は安定した様子を見せたが、実体経済と金融の乖離(かいり)に対する懸念が高まっている」と述べ、やはりバブルへの注意喚起を行った。
バブル下で、なおもばら撒き画策の危険性
実体経済が活発になれば、金融との乖離も徐々に解消されていくことが期待できるのだが、文在寅政権は企業を痛めつけ、労働者の福祉を第一にしている。前述したように、これは経済成長を目指す上で定石無視の我流経済政策だ。そしてここまで、その我流はことごとく失敗してきた。
経済失政を覆い隠すため、文政権はばら撒き政策をとってきた。この4月に行われるソウル市長選挙に向けても国民にカネをばら撒く政策を検討しているといの噂もある。これもまたバブルの形成に一役買っている。
バブルを放置し、さらにカネを撒き、企業の活力を阻害する政策ばかり取り入れていれば、行く末は見えてくる。国民からの人気取りのための政策が、いつしか国民を地獄の底に突き落とす結果を生むことになりかねない。文在寅政権は果たしてそのことに気づいていないのか。あるいは気付いていながら、その場しのぎの策を打ち、責任を後進に押し付けようとしているのだろうか。