(歴史学者・倉本一宏)
律令官人の一つの理想型
次は藤原式家(しきけ)の世嗣(よつぐ)という人物である。けっして教科書に載ることのないこの人物は、しかしながら律令官人の一つの理想型を示している。『日本後紀』巻三十九の天長八年(八三一)三月己酉条(十一日)は、次のような卒伝を載せている。
従四位上藤原朝臣世嗣が卒去した。世嗣は無位清成(きよなり)の孫で、贈太政大臣正一位種継(たねつぐ)の第四子である。延暦十九年に従五位下を授けられ、大学頭に任じられた。弘仁十二年に正五位下に至り、天長八年に従四位上となった。若くして博く学び、心を一にして努力した。自ら才能に乏しいことを知り、身分の低い者に尋ねることを恥としなかった。人に接するときは慎み深く、どんなときでもその態度を忘れることは無かった。伊勢の国司となったが、褒(ほ)められることも、謗(そし)られることもなかった。兄の死を聞いて百里の距離を駆けつけ、それから一月も経たないうちに、相継いで卒去した。時に行年五十三歳。
藤原世嗣(世継とも)は、宇合(うまかい)の曾孫、清成の孫、そして種継の四男にあたる。祖父の清成が無位無官で終わっているのは、天平十二年(七四〇)に広嗣が起こした藤原広嗣の乱に連座して処刑されたか、流罪となって、赦される前に死去したからであろう。この時、綱手(つなて)は処刑され、良継(よしつぐ)や田麻呂(たまろ)は流罪となり、天平十四年(七四二)に赦されて帰京している。
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世嗣の父の種継は、桓武(かんむ)天皇の寵臣となり、長岡京の造営に専心したものの、延暦四年(七八五)に射殺されている。その一男の仲成(なかなり)は平城(へいぜい)天皇の近臣となったが、弘仁元年(八一〇)の「薬子(くすこ)の変(平城太上天皇の変)」の際に射殺された。二男の縵麻呂(かづらまろ)は従四位下大舎人頭で終わり、弘仁十二年(八二一)に死去している。三男の山人(やまひと)は正五位下駿河守で終わり、没年は未詳である。その弟が世嗣ということになる。
世嗣が生まれたのは宝亀十年(七七九)。延暦十九年(八〇〇)に二十二歳で従五位下に叙爵され、ほどなく大学頭、次いで侍従に任じられた。種継の子ということで、桓武の意志が強くはたらいたのであろう。
大同三年(八〇八)に宮内卿を兼ねているのも、長兄の仲成同様、平城の意思によるものであろう。しかし、「薬子の変(平城太上天皇の変)」に連座することはなかったとはいうものの、嵯峨(さが)天皇の下では、その昇進は止まった。弘仁二年(八一一)には右少弁を兼ねさせられ、弘仁四年(八一三)には下総介を兼ね、位階こそ従四位上まで上ったが、任じられた官は伊勢守に過ぎなかった。
そして天長八年の卒去を迎えることになるのであるが、注目すべきはその人柄である。卒伝によると、若い頃から物事を幅広く学び、鋭意精進したのは、律令官人としては当然として(そうでない者も多かったであろうが)、自ら才能に乏しい事を知り、身分の低い者に尋ねることを恥とせず、人に接するときは慎み深く、どんなときでもその態度を忘れることは無かったというのは、なかなかできることではない。
少し高い地位に就くと、上の者には媚(こ)び諂(へつら)い、下の者には威張り散らす連中ばかり見ていると(私の職場にはいない。念のため)、この世嗣の態度は特筆すべきであろう。まして当時は家柄によって身分が固定されていた時代であった。こういう人が古代にもいたのだなあと、なにやら清々しい気持になってくる。
それにも増して、自分の才能が乏しいことを自覚するというのは、まことに天晴れな人物ということになる。自分が愚かであることすらわからない愚人よりも、自分が愚かであることを知っている愚人の方が、どれだけマシなことか。
伊勢国司を勤めても、褒められることも謗られることもなかったというのも、国司として苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は行なわなかったということなのであろうと、勝手に考えてしまう。
そして兄の訃報に接すると、百里の道のりを駆けつけたが、それから一月も経たないうちに、後を追うように卒去したという。この兄は、没年未詳の山人のことであろう。
これで藤原式家、特に種継系の没落は決定的となった。仲成の子の藤主(ふじぬし)は日向・豊前・備前に配流され、縵麻呂の子の貞成(さだなり)は従五位上相摸権守、山人の子の佐世(すけよ)は官位不明、そして世嗣の子の永峯(ながみね)は、『尊卑分脈』では刑部大丞とあるが、六国史には登場しない。
古代貴族にとって、栄達や没落は、本人の能力とは関係なく、父祖の功績や処罰によることも多い。しかし、であるからこそ、その現実を淡々と受け入れ、定められた運命の中で精一杯の官僚人生を送ることの尊さは、世嗣を見ていると再認識されてくるのである。