長井健司さん。ジェニン難民キャンプで(写真:嘉納愛夏)

(フォトグラファー+:嘉納 愛夏)

 長井健司さんのことをおぼえているだろうか。2007年、ミャンマーで取材中に政府軍兵士に射殺された映像ジャーナリストである。享年50才だった。その時に握りしめていたビデオカメラは国の体制が変わった今もまだ返却されていない。

 あれから間もなく13年が経過する。ちょうど今の私の年齢であり、来年には追い越してしまうことに時の隔たりを感じる。長井さんとは海外の紛争地域でたびたび一緒に行動する仲だった。言うなれば戦場取材の相棒だった。ただ私よりひと回り以上年上であることは気づいていたが、亡くなるまで長井さんの正確な年齢を知らなかった。

 おだやかな人柄は、先輩も後輩もマウンティングもなく、誰とでもフラットな関係を築いていたように思う。現場での所作を学ぶこともあれば反面教師的なこともあった。現場は生き物であり、正解もその時々でことごとく違う。

パレスチナでたまたま知り合う

 長井さんと初めて会ったのは2002年のパレスチナ。私が紛争地の取材を始めて4年目のことだ。

 1995年の阪神大震災を経験し、人は思いがけず突然死ぬこともめずらしくないという現実を目の当たりにした。「儲かった命」ということも強く意識した。それなら自分の好きなことを儲かった命を使ってやるべきではないか。「好き」を必死に探した結果、「報道」というそれまでまったく興味のなかった分野に惹きつけられた。そして報道カメラマンの究極の命の使い方は戦場ではないかと、ジャカルタ暴動(1998年)の現場へ向かった。ジャカルタに何度か通った後はパレスチナへ。

 当時のパレスチナは、第2次インティファーダの嵐が吹き荒れていた。イスラエルによるパレスチナの再占領、ベツレヘムのパレスチナ武装勢力立てこもり、イスラエル軍によるジェニン難民キャンプの破壊、パレスチナ人による自爆テロ、対するイスラエル軍の応酬・・・何もない日はない、ぐらいの日々。その割と早い段階でベツレヘムで活動していた日本人女子学生が砲弾の破片で負傷し、その当人をエルサレムのレストランで長井さんがインタビューする場面に居合わせたのだ。

パレスチナ自治区ナブルス。戦車が何のためらいもなく路上の車を踏みつぶしていった痕跡 2002年4月9日(写真:嘉納愛夏)
ナブルスの子どもたち 2002年4月9日(写真:嘉納愛夏)