(歴史学者・倉本一宏)
藤原北家の嫡流の長男・真夏
藤原北家の主流の人物を取り上げるのは、珍しいことである。内麻呂の嫡男の真夏(まなつ)である。まずは『日本後紀』巻三十八の天長七年(八三〇)十一月庚辰条(十日)をお読みいただきたい。
散位(さんい)従三位藤原朝臣真夏が薨去した。(略)生まれつき言葉を巧みに飾るところが有り、状況に合わせて処世した。音楽に優れた才能を示し、大同の初年、大嘗会所(行事所)に詰め、華美な標を造り、盛大な八佾の舞を演出した。大嘗会で莫大な費用をかけるようになったのは、これより始まるものである。行年五十七歳。
一見すると、言動や音楽の才能に溢れた上級官人が死去しただけの記事に見えるが、その系譜や官歴が記載されていないのは、いささか不審である。散位というのは位階だけあって官職のない者のことであるが、この頃になると高位を持った官人の数は膨大なものになっていたので、官職にあぶれた官人も、それほど珍しいことではない。
しかし、この真夏が北家の嫡流で右大臣内麻呂(うちまろ)の長男であり、死去したのが壮年の五十七歳であったことを考え併せると、何かしら特殊な事情が裏に存在したのではないかと勘ぐりたくもなる。
真夏は宝亀五年(七七四)に内麻呂の長男として生まれた。母は飛鳥部奈止麻呂(あすかべのなとまろ)の女(むすめ)の百済永継(くだらのながつぐ)。渡来系の女性であったが、内麻呂の次男で後に権力を得て太政大臣にまで上った冬嗣と同母なのであるから、生母の出自が出世の妨げになったわけではない。
なお、永継は後に女嬬となり、桓武(かんむ)天皇の寵愛を得て皇子を産んだが、その子は親王となることはなく、臣籍に降下して良岑安世(よしみねのやすよ)となっている(大納言まで上っているが)。永継も正式な后妃に数えられることはなかった。
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さて、真夏は延暦二十二年(八〇三)に三十歳で従五位下に叙爵され、中衛権少将と春宮権亮に任じられた。内麻呂の長男として、まずは順調なスタートを切ったと言っていいだろう。この時の東宮は安殿(あて)親王(後の平城[へいぜい]天皇)で、ここで真夏は安殿の側近となったことになる。なお、真夏と安殿は同年の生まれであった。
なお、真夏の妻として名が知られているのは、橘清友(きよとも)の女と伊勢老人(おきな)の女である(他に名前の判明しない三国真人女もいる)。つまり真夏の妻は、一人は嵯峨(さが)皇后橘嘉智子(かちこ)の姉妹、一人は平城宮人伊勢継子(つぎこ)の姉妹ということになる。真夏が藤原北家の嫡流として、若年時にいかに期待されていたかを示すものである。
なお、同母弟冬嗣の妻は、藤原真作(まつくり)の女美都子(みつこ)、百済王仁貞(くだらのこにきしにんじょう)の女、安倍男笠(おがさ)の女、島田村作(むらつくり)の女、大庭(おおば)王の女であり、明らかに王権に連なっている真夏の妻の方が有力である。
安殿が即位して平城の代になると、ますますその信任を受け、大同元年(八〇六)に従四位下に昇叙され、近衛権中将に任じられた。翌大同二年(八〇七)には右近衛中将に上り、武蔵守・内蔵頭・中務大輔などを兼任するなど、その優遇が露わになる。
大同四年(八〇九)四月に、平城は同母弟の神野(かみの)親王に譲位し、嵯峨天皇が即位した。そして真夏は、山陰道観察使として公卿の列に加わった。観察使というのは平城が定めた職で、参議を改めたものである。十一月には、平城太上天皇の御所として旧平城宮に建設する宮殿の占定を行ない、弘仁元年(八一〇)には造平城宮使に任じられるなど、相変わらず平城の腹心として行動している。
実はこれが、真夏が出世できず、薨伝にも官歴を記されなかった理由なのである。平安京の嵯峨天皇、平城宮の平城太上天皇という、「二所朝廷」といった政治情勢の中、内麻呂は長男の真夏を平城の側近に配し、次男の冬嗣を嵯峨に接近させたのである。
政治の分裂に際し、兄弟を両陣営に配して、どちらかの家系の存続をはかるという手法は、関ヶ原の戦の際の真田家や、戊辰戦争の際のいくつかの藩で見られたものである。しかし、この手法は必ず一方の繁栄の影で、一方の没落を招く。勝った側の冬嗣は藤原北家の嫡流の座を真夏から奪い、真夏とその家は没落していったのである。
弘仁元年六月、観察使廃止にともなって参議に任じられたが、もはや真夏の政治生命は風前の灯となっていた。九月に起こった「薬子(くすこ)の変(平城太上天皇の変)」が、嵯峨の側から起こされたクーデターであったことは、すでに何度も述べてきた。平城は出家して旧平城宮で余生を送ったが、側近たちはそうはいかなかった。
真夏は平安京に呼び戻され、参議などの諸官を解かれたうえで、伊豆権守、ついで備中権守に左遷された。三十七歳の時のことであった。この政変の最中に冬嗣がはじめての蔵人頭に補され、嵯峨側近の座を確固たるものとしたのとは、対照的であった。まさに内麻呂の思惑どおりということになる。
真夏は二年後の弘仁三年(八一二)に罪を赦されて本官に復されたものの、これは本位の誤記であろう。直前に内麻呂が薨去しているのは、偶然であろうか。『公卿補任』では、変わらず「前参議」とある。