神官が宗教行為に関与できなくなった理由

 1872年に神葬祭専用墓地として青山霊園が開設されましたが、これがいまの都立青山霊園のはじまりです。さらに、翌1873年には仏教の習俗に基づくものとして火葬が禁止されます。新政府は葬儀や供養の神式化をなんとしても推し進めたかったのです。しかし、神葬祭は庶民たちにはどうにもうまく普及せず、また火葬の禁止によって土地不足や衛生面でもさまざまな問題が生じたため、1875年に火葬は再び解禁されます。

 明治政府は、もともと江戸時代に敷かれていた寺請制度の機能を残したまま、信仰の対象を仏から神に移していくという都合のよい青写真を描いていましたが、実際には長い時間をかけて民衆の中にしみこんだ仏教と祖霊崇拝の結びつきの強さを、強引に神道一色にするには無理があり、大きな反発を招きました。

 加えて、近代国家の樹立のためには政教分離と信教の自由を国家の基本方針に盛り込むことが避けられず、政府は宗教政策の方針を大きく転換することとなり明治政府は「神道非宗教論」の立場をとります。政教分離の原則に従って神官は宗教行為である葬儀に今度は逆に関与できなくなり(ごく一部の神官を除く)、神葬祭の普及は挫折に終わります。

 そののち、第二次世界大戦後に神道が国家管理から離れて一宗教法人となったことにより、ようやくどの神官も葬儀に関わることが自由になりました。

 もともと伝統的に葬儀は仏教の役割が大きかったこと、しかし明治政府の推進により一度は神葬祭が推進されたこと、その神葬祭の推進も混乱の中、挫折を迎えたこと。これが神道のお葬式がゼロではないが、多くはない、という日本の近現代史的背景なのです。

【参考文献】

●加藤隆久 『神葬祭大辞典』 戎光祥出版

●安丸良夫 『神々の明治維新-神仏分離と廃仏毀釈-』 岩波書店

●小笠原弘道 「明治初期の神葬祭政策と民衆の動向

●金井重彦 「わが国における葬送儀礼の自由化の道すじ-幕末から大日本帝国憲法制定の時まで-

●中島隆広「国家神道とは何か」(出雲大社紫野教会WEBサイト)