日本人の死生観は、仏教と神道が手を携えあってこそ成り立っているといえます。私たちは神社に初詣に行き、お祭りでは神社に祀られる神様を神輿に担いで里を練り歩きますが、この神社にいる神様は、私たちの古い古いご先祖様に他ならないのです。

 亡くなったばかりの死者の供養は仏教に、年月が経って浄化された祖霊は神道に。今でもあたりまえのようにあちこちに存在する仏教のお寺と神道の神社は、日本人にとってこのような役割分担・存在意義で共存しているわけです。

「神葬祭」が推奨された明治時代

 日本書紀にはイザナミノミコトの葬儀の模様がかかれています。古代においては、日本独自の葬送の儀礼が行われていました。しかし前章でみてきたように、奈良時代以降長らく、日本では仏教が葬儀を取り仕切ったわけです。

 江戸時代に入ると幕府の寺請制度(てらうけせいど)により、仏教による死者供養はさらに強固になります。寺請制度とは、キリスト教を弾圧するためにキリシタンでないことを寺院に証明するための制度で、庶民は必ずどこかの寺院の檀家にならなければなりませんでした。神職であっても、一般の人と同じように菩提寺を持たなければならなかったほどです。

 しかし、江戸時代も中期になると、本居宣長や平田篤胤らによる国学が隆盛し、日本古来の文化や精神性の基盤である神道が見直されるようになりました。ここで神道式の葬儀「神葬祭」が盛り上がってきたのです。これは仏教寺院にとっては死活問題で、両者で大きく対立が見られるようになりました。

 そして明治時代に入り、新政府が神道を基盤とした国家作りを進める中で、神葬祭はいっそう推奨されます。