どの番組のだれがおもしろくないのか、ここで実名を挙げるべきかもしれないが、そこまで日本の言論は自由ではないから差し控える。おもしろくない原因を作っているのは、かれらを使いつづけるテレビ局の責任でもあろう。テレビでは「まずいもの」や「おもしろくないもの」はあってはならないのである。そして、いまや芸人たちがいなければ大半の番組が成立しない。

 いまの「笑点」で、おもしろくない答えに一番笑っているのは司会の春風亭昇太である。役目柄しかたがないのだろうが、昔、立川談志が司会をやっていたときは、平気で「おもしろくねえや、座布団とれ」とやっていた。あの頃の「笑点」はおもしろかった。いまではすべてにおいて馴れ合いになってしまった。見ているほうは白けているのだ。テレビで正論やホンネをいえば「毒舌」「辛口」「面倒くさい」と忌避される。

「おもしろくない」ことを批判せよ

 いまでは軒並み衰退したが、小説にも映画にも音楽にも批評が存在する。しかしお笑いの世界には批評がほとんど存在しかなった。

 3年前、茂木健一郎が日本のお笑い芸人を批判したことがある。海外の芸人は権力者批判や政治風刺をするが、日本の芸人は「上下関係や空気を読んだ笑いに終止し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無」、さらに「大物とか言われている人たちは、国際水準のコメディアンとはかけ離れているし、本当に『終わっている』」と痛罵した。ところが爆笑問題や松本人志らから反論されるや、茂木はいささかも抗戦することなく、あっさり尻尾を巻いて遁走したのである。

 松本人志に「(茂木は)笑いのセンスが全くないから、この人に言われても刺さらない、ムカッともこない」といわれたのがなぜか、茂木には一番堪えたらしい。茂木は「一番刺さったのが、松本さんの“センスがない”だった」というが、茂木健一郎に笑いのセンスがあるかないかなど、どうでもいい話である。松本は、茂木には笑いがわからない、といいたかったのだろうが、それを指摘する方も、指摘されて反省する方も、まったくピントがずれている。

 お笑い芸人批判をするのはいいが、茂木のいう権力批判だの政治風刺だのはどうでもいいのである。日本の芸人にそんなことできるわけがないし、だれも芸人に権力批判など求めてはいない。むしろ首相の桜を見る会に招待されれば嬉々として出かけるのである。首相に呼ばれれば手もなく会食するのである。「終わっている」か否かも、「国際水準のコメディアン」も、どうでもいい。お笑い芸人を批判するなら、眼目は、お笑い芸人なのに笑えない、つまりおもしろくないという一点でなければならない。

「おもしろい」が社会的価値になってしまった

 いまやお笑い芸人は偉くなってしまった。ダウンタウンはテレビ局の幹部連が玄関口まで出迎え・お見送りをするという。すっかり芸人枠というものができて、映画、テレビドラマ、コメンテーターに起用されるのもあたりまえになった。CMにも起用され、ワイドショーの司会者(生意気にもMCという)にも抜擢されるようになった。

 一発当てれば、バカみたいな報酬が払われる。「ヒロシです」のヒロシでさえ、全盛時の月収が4000万円あったという。80年代の漫才ブームのとき、ビートたけしは「200億円稼いで税金が180億円」だったという。