写真:森田直樹/アフロ

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 人殺し、暴力沙汰、性犯罪、児童虐待、詐欺、ハラスメント、煽り運転、近所トラブル、ネットいじめなど、毎日毎日、ろくでもないニュースばかりを見せられていると、司馬遼太郎ではないが、日本人を辞めたくなるような気分になる。さらに世界を見渡してみると、人間であることさえ呪いたくなることもある。そんな不快なニュースはできるだけ避けるようにしているが、避けきることはできない。

将棋が持つ清涼な世界

 そんなところにふっと、藤井聡太七段の対局のニュースがもたらされる。とたんに、苛立った神経が平らになる。わたしにとっては、唯一ほっとするニュースだ。あのにこやかな明るさと、ふわふわしたやさしい語り口と、おだやかな佇まいが映し出され、心が静まるのである。それなのに、かれは斯界では最強のひとりなのだ。

 また「将棋」という、世間の価値観(お金と自我の拡大)から離れたところで成立している伝統ゲームが、この21世紀にまだ存続していることにも救われる思いがする。プロ棋士はわずか200人ほどしかいない。だが、その小さな狭い世界でしのぎをけずり合っている人たちがいるのが頼もしい。

 全員、全国から集まってきた神童たちの集団(奨励会)のなかを勝ち抜いてきた秀才ばかりである。奨励会は6級からスタートし、4段になるとプロになれるのだが、奨励会の6級はアマチュアの4段に相当するといわれる。そしてアマ4段とは、甲子園に出場する高校球児レベルなのである。

 世間の価値観と離れているとはいえ、それと無縁で生きることはできない。だから、その世界は品位ある立派な人たちばかりが集まっているというつもりはない。しかしそれでも相対的にいえば、そこはやはり、より多く清涼な世界のように感じられる。野球選手のように年俸や外車や高級時計を自慢したり、試合で頻繁に吠えたりガッツポーズをしたりというような自己アピールは皆無である。純粋に将棋が好きで、ただただ強くなりたいと思っている人間ばかりである。

「負けました」と宣言する勝負がほかにあるか

 いまから40~50年ほど前、将棋の世界は一癖も二癖もある「昭和おやじ棋士」たちの世界だった。大山(大山康晴)・升田(升田幸三)時代はもう終わっていたが、まだ勝負師という雰囲気が残っていて、米長邦雄、内藤國雄、有吉道夫、加藤一二三、芹沢博文らが健在だった。やがてそこに「自然流」と呼ばれた新時代の旗手の中原誠が登場し、そののち「光速流」の谷川浩司がすい星のごとく現れて話題となり、平成になると天才羽生善治の登場となる。時代は変わり、いまや完全な世代交代が進んでいる。棋士たちもより洗練された。

死闘を繰り返した大山康晴(左、1923年~1992年)と升田幸三(右、1918年~1991年)、Wikipediaより