ただ、差別は感染者に向けられているだけではありません。感染していない人や施設に対しても起こっています。たとえば、第1波の感染拡大期に、新型コロナ感染症患者を受け入れなかった病院の医師の中には、「××病院は受け入れているから危険ですけど、うちはコロナを受け入れていないからクリーンですよ」と言っていた医師がいます。

 正しい医学的知識と倫理観を持っているべき医師でもこうなのですから、社会では差別や偏見がじわじわ広がっています。“夜の街”で働く人への偏見、東京ナンバーへのいたずら…。エッセンシャルワーカー、とりわけ医療従事者とその家族への差別も深刻です。

 7月23日には、吉村洋文大阪府知事が、中学2年の女子生徒からの手紙にこたえて、「差別は絶対にやめましょう」とtwitterで訴えました。その手紙には、「お父さんがお医者さんなら学校に来るな」というラインやメールが来て困っているとあったそうです。

「(感染者を受け入れている)病院の前は歩けなくなった」、「(感染者収容のホテルの)部屋の窓を絶対に開けないで欲しい」と述べる近隣住民もいるようです。

差別を「抑える」には?

 では、そもそも差別はなぜあるのでしょうか?

 今、コロナ禍のアメリカでは、「Black Lives Matter」が大きなうねりとなっています。アメリカの歴史は、建国以来人種差別との闘いの歴史でもあります。奴隷解放や公民権運動など、人種差別を乗り越えようと努力する人たちがいて、法律・制度において差別はなくなりました。

 実際、私がアメリカで6年間暮らした時にも、普段の生活で差別を感じることはありませんでした。むしろ、日本よりも民主的と感じることすら多かったです。

 人種や民族によらず、人が集まれば気軽に話をはじめる、困った人には手を差し伸べる、人の意見には耳を傾ける、合理的であれば誰の意見でも採用しようとする。誰かが公平でない見解を吐くと、”It’s not fair(それは公平ではないよね)”と他の誰かが声を上げ、考え、解決策を探る。話しながらも、お互いの文化を尊重し、それに理解を示す。差別に繋がるような発言をしないように気をつける。普段は、理性的、合理的、民主的な言動を心がけ、実践できるのです。法律・制度だけでなく、社会的な差別もまったく感じませんでした。

 けれども、人間は、自分に被害が及ぶ可能性がある時には、感情をコントロールできなくなる。特に生命に危機が及ぶ状況では、人間は容易に、理性的な言動ができなくなるのでしょう。このような人間の奥底にある弱い感情が、コロナ禍をきっかけに爆発し、ないはずの差別の存在が露呈してしまったのではないでしょうか。

 そんなアメリカを見ていると、悲しいかな「自分が優位に立てる、自分と異なる属性の人々を見つけて不安を消し、安心を得ようとする」のが人間の根源的な性なのではないかとさえ思ってしまいます。しかし、たとえそうだとしても差別をなくす努力は続けていかなければなりません。それができるのもまた人間です。