無縁仏は本当にかわいそう?

 お墓はその時代その時代の生活と考え方や合理性によって選ばれてきました。家墓も、近代以降~戦後直後には当時の最新式のスタイルであったし、高度成長期~バブル経済期には多くの人口を抱える日本社会の構造や家族の形態に合った非常に合理的な仕組みだったと思います。しかし時代とともに家族のかたちやライフスタイルも変化していきます。100年経ってみれば家墓も、遠くて行くだけでも大変、墓じまいした方がいいか、などお荷物感の強い、嫌われてしまう存在になってしまいました。

 同様に今新しいお墓、埋葬の仕方といわれている樹木葬、散骨、宇宙葬などが今の段階では本当にいいのかはわかりません。本当に70年後、80年後にも維持や管理ができているでしょうか。100年経ったらまた新たな問題が起こっている、そう考えるほうが自然ですね。

 今お墓を買っている団塊の世代は、比較的お金と時間に余裕がある人が多く、だからこそ埋葬方法にも選択肢があります。しかし、「家」「血縁」単位ではないお墓の継承という観点では、今の団塊の世代よりもこれからの世代の方が深刻です。現在の40代以下は雇用が不安定と言われますし、非婚・未婚化が進む中で、お金がなくてお墓にも入れない、おそらく葬送や埋葬に関して選択する余地もないでしょう。その世代があと20、30年で亡くなる時期に入ってきます。

 そもそも無縁や孤独死がかわいそう、というイメージそのものに問題があるのかもしれません。考え方をすこし変えるだけで見える世界は違ってきます。すべての人が平等に弔われる権利をもつ社会──その実現には、ある程度公的な制度として、亡くなっていく人の安心・安全を保障する仕組みが必要だし、方法はあると思っています。今はまだそこまで見据えた議論はできていませんが、若い世代代表として今後も発信していきたいと考えています。

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 庶民がお墓を建てることを禁じられていた江戸時代から、○○家という家単位でお墓を持つことが許された明治時代。庶民は身分の差にかかわらず遺骨をお墓に納め弔われる権利を得た。家単位で遺骨を一つの場所に収納するので省スペースであること、保健衛生上の必要性や火葬技術の発展から火葬が広がり、骨壺の持ち運びや墓じまいのしやすさ、高度成長期に必要に迫られてパッケージ化された墓石。「家墓」は「ずっと続いてきた日本人の先祖祭祀の心のあらわれ」ではなく、亡くなった人や先祖を偲ぶという気持ちと、近代化や都市化とともに家族の形態や庶民の生活に合った方法やビジネス上の要請が重なり合って選ばれてきた。

 骨壺をカロートに納め、角柱の墓石に○○家と刻む「家墓」は長く続いてきた日本の伝統的習慣とはいいきれず、一般化してから100年も経っていない。「代々続いてきた」といってもせいぜい3~4世代くらいだ

 日本の「家族の規模」は今後も確実に縮小していく。単身世帯やひとりっ子の増加などにより、「ずっと続いてきたのに自分の代で終わらせてしまう不安がある」人もいるかもしれない。しかし血縁を中心とした代々墓はそれほど長く続いてきたものではない。お墓のカタチも時代によって変化してきたし、今後も変わっていくだろう。

 死後を託せる人がなく自分の死後が心配という人もいるかもしれないが、それは必ずしも家族や血縁ベースではなく信頼できる誰かがいればいいし、今後は問芝さんがいうように弔われる権利を保障し、それを公的な仕組みで下支えする必要があるのではないだろうか。

【参考文献】

●岩田重則 『「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌』 岩波新書 2006年

●井上治代 『より良く死ぬ日のために』 理論社 2010年

●問芝志保 「関東大震災と家族納骨墓―近代都市東京の墓制―」『宗教研究』393 2018年12月