江戸時代後期まで庶民に墓は禁止されていた

 江戸時代中期の武士や貴族、大商家には、墓を家単位で長男が継いでいくという仕組みがありましたが、庶民の場合は墓を営むことが法的には禁じられていました。中には墓を営む庶民もいましたが、ほとんどは簡単な埋葬や火葬をするか、遺体は山や川に捨てられるなどで、必ず地中に埋められるというわけでもありませんでした。いわゆる孤独死も珍しいことではなかったのです。

 1831年(天保2年)の「墓石制限令」によって、庶民でも墓を営むことが法的に許されるようになります。しかし、例えば東京で、寺に墓地を建てた場合は、2、3年お布施がなかったら墓は倒され撤去され、次の人がその場所を使うといった状況で、すぐに現代に見るようなお墓が整備されていったというわけではありませんでした。


問芝志保(といしば・しほ)氏。日本学術振興会特別研究員PD。1984年札幌市生まれ。博士(文学)。専門は宗教社会学。2006年 筑波大学第二学群比較文化学類卒業、2011年 大正大学大学院文学研究科宗教学専攻修了、2019年 筑波大学大学院 人文社会科学研究科 哲学・思想専攻 宗教学・比較思想学分野修了。2019年11月現在、国立歴史民俗博物館外来研究員、聖心女子大学非常勤講師、國學院大學日本文化研究所PD研究員、公益財団法人国際宗教研究所研究員。 最近最も力を入れている研究テーマは、「墓参りをするといいことがある、あるいはしないと不幸が起こる、といった墓に関する俗信が、いつからどのように広まってきたのか?」

 墓石の形もまちまちだったようです。当時は全国的にみれば土葬が主流で、土葬の場合は基本的に一体ずつ埋めるため、墓石は家単位ではなく個人や夫婦単位でしたし、必ずしも角柱ではなく大きさも統一されたものではありませんでした。この頃までは日本の各地域の習俗や自然環境等によって、さまざまな遺体の埋葬方法や墓の立て方や営み方があったのです。

 明治以降になると身分や貧富の差にかかわらず、すべての人がきちんと葬られる権利を得ることになります。その背景には、都市への人口移動や都市計画、衛生問題があります。

 1878年(明治11年)から翌年にかけてコレラが流行した際には、伝染病を食い止めるために火葬が推奨されました。西洋に追いついて文明国を目指す中で、町中に死体がごろごろしているのは「みっともない」と認識されるようになり、また遺体の取扱いが人間の尊厳にかかわる問題だと捉えられるようになりました。

 法的にも刑法(死体遺棄罪)や民法(「墓地及埋葬取締規則」)などが定められていきました。決まった場所に決まった方法で埋葬され、明治民法第987条「系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ハ家督相続ノ特権ニ属ス」とあるように家単位で先祖を祀る、ということになったのです。明治政府は庶民に「名字」をつけ、民法でお墓は個人ではなく「○○家」単位で持つということになっていったのです。

家墓の普及は都市化と火葬が影響

 また、個人墓から、カロートという小さな石室の中に家族の遺骨を納めていくという、いわゆる「家墓」への変化の背景には火葬の普及が大きく影響していると言えます。

 土葬の場合は一人一人の遺体を埋めるスペースがどうしても必要ですが、火葬した遺骨なら一つの場所にまとめて納めやすいからです。人口の多かった東京や大阪などの火葬率は江戸時代から高かったようで、明治期の法整備と相まって、都市部から「家墓」が普及していったと考えられます。

 とはいえ、都市部でも土葬から火葬へすぐに移行が進んだというわけではありません。例えば一つの家族の中でも、「おばあちゃんは火葬なんて絶対にイヤ!」「じゃあ土葬ね」「お父さんは火葬ね」といったように臨機応変に対応していたケースもあったようです。

 また、明治末期以降には国民道徳教育の中で先祖祭祀や墓参りが推奨され、お墓は大切にするもの、という考えが広がっていきました。その中でドイツ、オーストリアの墓をモデルにする流れがあり、ドイツの大きな霊園を日本人が視察し、資料をもらって帰ってきてそれを参考に霊園を作ろう、という動きもありました。

 明治期以降、庶民にもお墓を立てて埋葬することは「権利」として認められるようになり、しかも家の財産として墓を遺せるようになりました。家墓の仕組みは、そういう意味ではすべての人が差別なく弔われることを保証した、という点で評価すべきポイントだと思います。