「強制」は強力だが、違反者が増えれば無力

 ここまで述べれば明らかなように、自粛の要請は「情報」に、休業補償が「金銭」に、そしてまだわが国では導入されていないが、罰則で担保された閉鎖命令や外出禁止令などが「強制」に相当する。これらのツールは、それぞれ強み、弱みをもっている。

「強制」は、いうまでもなく公権力を行使して、場合によっては実力によって、行動を規制する手段であるから、国民の基本的人権である権利や自由を制限することになる。したがって、それを用いる場合にも、必要最小限でなければならず(比例原則)、かつ慎重な法的手続を経ることが求められ、手間も時間もかかる。

「強制」は、たしかに強力なツールではあるが、それで充分な行動変容の効果が得られるかといえば、必ずしもそうではない。ルール違反の状態が明瞭でない場合や、すべての自動車がスピード違反を犯している場合には、違反者全員を摘発することは困難である。特に、理性を欠いた大量の違反者に対しては無力であり、そのような場合には対応を間違えると無法状態を招くことになりかねない。

 もちろん、実際には、すべての違反者を摘発する必要はない。“摘発のポーズ”だけでも、一定の効果はあるし、最も悪質な確信犯のみを摘発し、「一罰百戒」の効果を期待することもよく行われる。抜かなくても“伝家の宝刀”を持っておく意味はあるのである。

 このように、強力ではあるが使いにくい「強制」に比べて、相手方の自発的な同意を前提とする「金銭」は、状況や対象に応じて柔軟に用いることができる方法だ。ただし、その効果は、受け手によって異なり、またインセンティブとして提供される金額の大きさによって異なる。金持ちに少額を提供しても期待できる行動変容の効果は小さい。かといって、金額を増やすと、トータルな財政負担が重くなる。

 また、「金銭」はわが国のように国民ID制度が使えず、事務処理を手作業でやっている場合には、不正請求を避け、所得や収入源などの状況に応じてきめ細かく受給資格を判定することは容易ではない。不要なコストと時間がかかる。

 そのため、今回の一人10万円給付のように、急ぐ場合には実質的な平等性、公平性はあきらめ、形式的な一律給付にせざるを得ない。その結果は、必ずしも給付を必要とせず、要請だけでも充分に自粛をしてくれる多数の国民にもボーナスをプレゼントすることになる。

 要請に応じて休業する場合には補償すべきという主張にも理はあるが、今回の補償や10万円給付の議論を聞いていて不思議なのは、財源の話がほとんど出てこないことだ。たしかに緊急時であり、従来の枠に捕らわれない国債の発行も必要であろう。しかし、国家の懐は無限ではない。補償の原資が足りなくなったとき、「金銭」というツールの有効性は急減するといえよう。