政治家は科学者の助言を聞くにせよ、責任を持って決断し、その決断の責任を負う必要がある(写真:つのだよしお/アフロ)

 少子高齢化と人口減少が進むわが国の社会の質を維持し、さらに発展させるためには、データの活用による効率的な社会運営が不可欠だ。一方で、データ活用のリスクにも対応した制度基盤の構築も早急に求められている。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によって、これまでの経済、社会のあり方は大きく変わろうとしている。

 その中で、日本が抱える課題をどのように解決していくべきか。データを活用した政策形成の手法を研究するNFI(Next Generation Fundamental Policy Research Institute、次世代基盤政策研究所)の専門家がこの国のあるべき未来図を論じる。令和版「この国のかたち」の第3回は理事長の森田朗氏。(第1回「国家による保護と統制をどこまで許容できるか」、第2回「コロナで沈没する地方の『誰を生かし、誰を殺すか』」はこちら)

専門家が大きな役割を果たしたコロナ対策

 世界で猛威を振るう新型コロナウイルス感染症──。感染症の拡大予測について、西浦博北大教授をはじめとする専門家の分析と助言に関心が集まった。高度に専門的な感染症の拡大予測については、対策を打つ政治家も、専門家の見解に基づいて決断を下さざるを得ない。

 3月末に専門家会議のメンバーが、「国民の接触を通常の80%減らせば比較的短期間で収束するが、20%では感染者は減少しない」と発表した。それを受けて安倍首相は「最低7割、極力8割の削減」を国民に要請した。さらに、メディアの中には6割削減という数字も現れた。この7割、6割という数字は、後で専門家自身が否定している。専門家の意見に基づいていると言いながら、なぜこういう数字が出てくるのか。

 感染症に限らず、地震にしても、大規模な事故にしても、その原因や被害の予測、対策の多くは、高度な科学的判断の問題である。避難の指示や救援の決定を行う政治的リーダーも、その決定にあたっては、専門家の科学的見解に依拠せざるを得ない。

 他方、住民に対する避難の指示にしても、今回話題となったロックダウン(都市封鎖)による移動の禁止にしても、国民の権利や自由を制限するものであり、その決定は法的な根拠に基づき、権限をもった政治的リーダーが行わなければならない。

 政治的リーダーは、決定に際して、ある分野の専門家の見解だけではなく、当然、その決定が社会のさまざまな分野に与える影響についても考慮する。たとえ専門家が中止すべきと助言しても、中止によってより大きなマイナスの影響が予想される場合には、助言に沿わない決定を下すこともありうる。

 そこで問題が生まれる。高度に専門的な事項について、非専門家である政治的リーダーの判断に、専門家の知見をどのように反映させるべきか。一つの専門領域について助言したに過ぎない専門家は、結果についてどこまで責任を負わなくてはならないのか。

地震予知に失敗し「有罪」となったイタリア

 このような科学と政治の関係をめぐる問題を考えるとき、思い出されるのは2009年イタリアのラクイラで起こった大地震のケースである。

2009年に起きた大地震で、イタリア・ラクイラの街は大打撃を受けた(写真:ロイター/アフロ)

 小規模地震が頻発していたこの地域について、地震の専門家は大規模な地震の兆候はないと発表した。ところが、その後マグニチュード6.3の地震が起こり、300人以上の住民が死亡した。その結果、兆候はないといった専門家を含む国の大災害の予測と予防のための全国委員会の委員が過失致死罪で告発され、1審で求刑を上回る禁固6年の実刑の判決が出されたのである(控訴審では無罪になった)。

 このケースをめぐって、科学の限界や科学者の役割について多くの議論がなされた。昔と比べて科学が発達したとはいえ、地震予知など将来の予測に関しては未知の領域はあまりにも広い。それでも被害を減らすことに役立つならば、何らかの見解を示すことは意味がある。しかし、結果が予測に反したとき、科学者は責任を負うべきなのか。それとも専門家の助言に依存せざるを得ないとはいえ、最終決断を下した政治的リーダーが全責任を負うべきなのか。