安易なポジティブシンキングは危険
収容所生活を耐え抜くために必要なもう1つのポイントは、「安易なポジティブシンキングを避けること」です。
いくら希望をと言っても、根拠のない希望は逆に有害になりうるということです。
たとえばこんな一文があります。
「収容所では、政治はいつでもどこでも関心の的だった。人々は熱心に、戦況がどうなっているかなど、伝わってくるうわさを仕入れてはまた流した。しかし、うわさ同士はたいてい矛盾しているので、つじつまのあわないうわさがつぎつぎと流れてくる結果はただひとつ、被収容者の心をすり減らす「神経戦」をひきおこしただけだった。楽観的なうわさは、もうすぐ戦争が終わるという希望をもたらし、希望は何度も何度も失望に終わったために、感じやすい人びとは救いがたい絶望の淵に沈んだ。往々にして、仲間うちでも根っから楽天的な人ほど、こういうことが神経にこたえた。」(同55ページ)
この部分、「ああ~なるほど・・・」と思いませんか? まさに、今の私たちが置かれている状況と同じなのです。私たちも、様々な立場の人が発信する、つじつまのあわない情報に右往左往、一喜一憂させられていないでしょうか。しかも、なぜか怒りや批判に対して私たちは同調しやすく、自分の不安を他者への攻撃に乗せてしまいがちです。
では逆に、楽観的であればいいのかと言うと、そういうわけでもないという点も盲点です。
たとえ明るいニュースであっても無暗には飛びつかず、気持ちに保険を掛けておくことが大切なのです。
こんなエピソードもあります。1944年の12月から翌1月にかけては、収容所でそれまでになく多くの人が亡くなりました。
なぜかと言うと、そのとき、なぜか多くの人が「クリスマスには家に帰れる」という、願望が混じった推測にしがみついていたそうです。そしてその願いが当然のように裏切られたときに、失意と落胆のうちに多くの人が亡くなったのです。
これも、私たちに大事な教訓を与えてくれます。
「ゴールデンウイーク明けまでにはもうちょっと良くなっているだろう。」
「夏になって暖かくなれば大丈夫。」
「さすがに来年のオリンピックまでにはなんとかなるだろう。」
私たちも多かれ少なかれ、そんな希望を持っているのではないでしょうか。
しかし、それにもこだわらない方がいいでしょう。フランクルが言うように、期限を設定した希望は有害になりうるのです。
そして、おそらくこういった希望の裏には「世界が元通りに戻ってほしい」という潜在意識があります。
元に戻らない世界に適応していく
もちろん、コロナの脅威がなくなってほしいというのはだれしも同じでしょう。
しかし、では世界がまったく元の通りに戻るのかと言うと、それは難しいことではないでしょうか。
私たちは今までに経験したことのないパンデミックにさらされました。
既存のシステムや生活習慣に、どれだけ多くのリスクが潜んでいたのかも明らかになりました。
もちろんまだコロナ騒動は終息していないし、近い将来、第2、第3のパンデミックが来るのも、まず確実でしょう。
その時に、現状のままでは同じ轍を踏むだけです。どれだけリスクを軽減し、セーフティーネットを張った社会を構築できているかが、重要な分岐点になります。つまり、「世界を元通りに戻してはいけない」のです。
いつかは分からないけれども、このコロナ騒動は必ずいったん終息します。そこが、フランクルが置かれていた立場とは決定的に違うポイントです。
その終息後の世界をにらんで、自分や家族の生活や仕事の内容をどう再構築するか、じっくりと計画を練ることを、この世界を生き抜くための暫定的な目的としましょう。そして、変化が始まったときに適応できるように、爪を研いでいれば良いのだと思います。
最後に、フランクルの哲学を凝縮した言葉があります。
「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。(中略)私たちはその問いに答えを迫られている。」(同129ページ)
つまり、私たちは人生から何かを期待するような立場にはいない。むしろ人生が、私たちに向かって「どうするの?」と問いかけている。人生は時々刻々変化していて、その都度「どうするの?」と問いかけてくるので、私たちは、それに全力で答えなければいけない、ということです。
フランクルの言う通りです。私たちは今、非常に大きい「どうするの?」を問いかけられています。
(参考文献)
・ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』新版 みすず書房
・NHKブックス『100分de名著 フランクル 夜と霧』